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大河ドラマに恋して

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真田丸の顕彰碑と出城跡

慶長19年(1614年)、方広寺鐘銘事件をきっかけに、徳川氏と豊臣氏の関係が悪化。

豊臣家は、浪人を集める策を採り、九度山の真田信繁の元にも使者を派遣して黄金200枚、銀30貫を贈り、信繁に九度山を出るように説得します。

信繁は上田にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して、子の大助幸昌と共に大坂城に入場しました。

大坂で信繁の率いた軍は、鎧を赤で統一していたといいます。

信繁は、大坂城の最弱部であったとされる三の丸南側、玉造口外に「真田丸」と呼ばれる土作りの出城(半円形)を築きました。

「真田丸」は大阪明星学園の辺りにあったとされていることから、同学園に2016年2月「真田丸顕彰碑」が設置されました。

明星学園
IMG_3376 明星学園

心眼寺坂を上がっていくと、テニスコート外側に、碑が見えます。

IMG_3357 明星学園

IMG_3355 顕彰碑

IMG_3356 顕彰碑


真田丸顕彰碑
 慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦で西軍に与し敗軍の将となった信州上田城主真田昌幸・幸村(信繁)親子は戦後高野山に流され、しばらくして麓の九度山(和歌山県九度山町)に移った。父昌幸は慶長16年6月4日に九度山で亡くなるが、幸村は、大坂冬の陣が勃発するや否や、慶長19年10月、豊臣秀頼の招きに応じて大坂城に入城した。
 幸村はすぐに大坂城の弱点が南側にあるのを見抜き、出丸を構築した。これが「真田丸」で、幸村は慶長19年12月4日、ここ「真田丸」を舞台に前田利常・松平忠直・井伊直孝・藤堂高虎ら徳川方の大軍を手玉にとった。
 「真田九」の場所については、元禄年間(1688年~1704年)に作製された大坂三郷町絵図に「真田出丸跡」として明示されており、それによると現在の大阪明星学園の敷地が「真田九」の跡地であることが明らかである。今はグラウンドになっているため、かつての面影は全く失われているが、真田幸村はこの場所で徳川方相手に大勝利を得たのである。                   
   平成28年1月



明星学院のグランドの向かい側に心眼寺があります。

IMG_3354 心眼寺坂

IMG_3353 明星学園

元和8年(1622)4月、白牟(はくむ)和尚が、「真田丸」があった場所に、幸村・大助父子の冥福を祈るためにお堂を創建しました。

IMG_3336 心眼寺

真田幸村出丸城跡 
IMG_3337 心眼寺

寺の定紋は真田家の六文銭、山号は真田山。

IMG_3343 心眼寺

IMG_3344 心眼寺

しかし当時、大坂は江戸幕府の直轄地であったため、豊臣方の武将であった信繁の墓をつくることは許されなかったそうです。

IMG_3341 心眼寺

IMG_3342 心眼寺

それでは、中に入ってみましょう!

IMG_3338 山門

真田丸の戦いがあった「大坂冬の陣」から400年目にあたる2014年、信繁四百回忌に、墓碑が建立されました。

「従五位下 真田左衛門佐豊臣信繁之墓」と記されています。

IMG_3345 心眼寺

IMG_3351 心眼寺

IMG_3346 心眼寺

従五位下
真田左衛門佐豊臣信繁之墓
慶長20年5月7日 於 摂州大阪討死 49歳
     墓碑銘  歴史地質学者 中村 武生
       書             松本 笙絢 
 真田信繁は、武田信玄配下の武将であった、父真田昌幸の次男、通称は源次郎、号は好白。
 関ヶ原の戦いでは父と共に西軍側に付くも、戦いに敗れ、紀州九度山に幽閉される。十四年間、蟄居生活を送り、慶長19年(1614)豊臣方に参加した。
 大坂冬の陣では、難攻不落の大坂城唯一の弱点とも豊臣秀吉が危惧した、南惣構の外側に真田出丸を構築、そこで徳川方と壮絶な死闘を繰り広げた。
 翌年の夏の陣で、信繁は茶臼山に本陣を置く。徳川本隊と戦い、徳川家康に迫るも力尽き、越前兵に安居神社付近で討ち取られたと伝えられる。
 真田信繁は、一般に「幸村」として知られる。しかし、現存最後とされる慶長20年3月19日付の書翰にも「左衛門佐信繁」と署名があり、生前「幸村」と名乗ったことはなかったと考えられる。
 徳川時代中期にあたる十八世紀のなかばごろには、「幸村」の呼称が流布していた。本墓碑は、生前の確実な諱である「信繁」を採用した。
 豊臣姓は秀吉が創始したもので、弟秀長や甥(のち養子)秀次ら親族のほか、毛利輝元や徳川秀忠(おそらく家康も)など有力大名も称した。
 当寺は徳川時代より信繁の菩提を弔っている。信繁の四百回忌に際して、墓碑を建立する。
                                    平成26年(2014)10月吉日
                                        真田山 心眼寺


本堂
IMG_3349 本堂

IMG_3347 地蔵尊

そして、境内には、京都見廻組の墓もあります。

IMG_3339 見廻組

見廻組の墓


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大坂冬の陣・夏の陣「茶臼山古戦場跡」

大坂の天王寺公園内にある茶臼山古戦場跡を訪ねてみました。

公園の入り口には、旧黒田藩屋敷長屋門があります。

IMG_3158 黒田藩

IMG_3159 黒田藩

(碑文)
現在中之島三井ビルの場所がおおむね福岡黒田藩の蔵屋敷で、これはその長屋門である。数少ない蔵屋敷遺構の一つで、昭和8年三井ビル建設に際し大阪市に寄贈された。
旧黒田藩屋敷長屋門
 蔵屋敷は諸大名が自国産物の保管、管理、販売のために設けた藩邸で、明治維新直後には135を数え、交通運輸(水運)に便利な堂島、土佐堀川、江戸堀川など中之島周辺に集中していた。市に寄贈された長屋門だけがここへ移されたもので、現存する蔵屋敷の長屋門の遺構として貴重な存在であり、江戸中期の建造物とされている。

茶臼山は、1614年(慶長19年)11月の大坂冬の陣では、徳川家康の本陣となり、1615年(慶長20年)5月の大坂夏の陣では、真田幸村(信繁)勢の本陣として、茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)が繰り広げられました。

IMG_3161 茶臼山

では、天王寺公園の豊かな自然を楽しみながら、茶臼山に向かってみましょう。

IMG_3157 イチョウ

IMG_3156 和気橋

茶臼山へと架かる橋は、「和気橋」といい、788年(延暦7年)和気清麻呂が旧大和川の流れを変えるために上町台地を開削した際、古墳の濠を利用した名残が河底池だと伝わります。

IMG_3155 和気橋

IMG_3154 和気橋

この橋を渡ると、こんもりとした小高い山に辿り着きます。

茶臼山は、標高26mの山ですが、これまで5世紀ごろの全長200m近い前方後円形古墳とされる説と、自然陵とする説がある山です。

IMG_3141 茶臼山

「大坂夏の陣」の説明板
IMG_3145 茶臼山

茶臼山に布陣する真田幸村軍と、徳川方の布陣の様子が描かれています。

徳川方155,000vs豊臣方 55,000

これを見ても、両軍の兵力の差が一目瞭然ですね。


ここから階段を上って行きます。

IMG_3143 茶臼山

史跡 茶臼山 及 河底池
IMG_3146 茶臼山

この茶臼山は、昭和61年度に発掘調査を実施したところ、古墳の築造と同様の方法で盛土が行なわれたことがわかったほか、本陣跡の遺構がよく保存されていることがわかり、記録にある家康本陣の台所跡の一部も発見されたそうです。

ここからもう少し階段を上がると、山頂になり、平らな広場が見えてきます。

IMG_3147 茶臼山

戦国時代、ここには大塚城(茶臼山砦や茶臼山陣城)がありました。

大塚城は茶臼山古墳を利用した戦国時代の城郭の一つと思われています。

大塚城は1546年(天文15年)に細川晴元の家臣・山中又三郎が茶臼山古墳の後円部に城を築いたと言われていますが、舎利寺の戦いで細川氏綱、遊佐長教連合軍に攻め込まれ落城。

11615年の大坂夏の陣において、真田幸村(信繁)の陣城として使用されたのを最後に廃城となりました。

IMG_3153 茶臼山

IMG_3144 茶臼山

慶長二十年五月七日(1615年5月7日)、紅の旗・吹貫であたかもつつじの花盛りのように群れなびかせた真田の赤揃が陣を構える茶臼山の真田幸村隊三千五百は、この日の正午過ぎ、徳川方最強の松平忠直率いる越前勢一万五千と激突し、真田の赤揃えと松平家の家紋のツマ黒が交互に入り乱れる大坂夏の陣最大の激戦が茶臼山周辺で繰り広げられた。(大坂夏の陣 天王寺口の戦い)
数では劣る真田隊ではあったが、高い戦意と捨身の攻撃で越前勢を突き破り、徳川家康の本陣目掛けて一文字に三度の攻撃を仕掛け、あとわずかで家康の首に手が届くところまで攻めるも、数に優る越前勢が混乱から立ち直り反撃を開始、しばらく茶臼山に拠って抵抗を続けた真田隊も越前勢の猛攻によって奮戦むなしく壊滅し、真田幸村も激戦を戦い抜いて疲弊し茶臼山の北にある安居天神で休息しているところを越前兵により討ち取られる。
―真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由―「薩摩旧記」

山頂には、真田幸村の名言が書かれた案内板も立っています。

IMG_3150 名言

IMG_3151 名言

IMG_3152 名言

IMG_3148 名言


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大坂冬の陣「鴫野の戦い」

1614年(慶長19)年、方広寺鐘銘事件により、豊臣方と徳川方と対立が激化すると、両家の調整役の
片桐且元は、戦争を避けるために徳川家康との和平交渉に奔走しましたが、家康と交渉している間に、大野治長や淀から家康との内通を疑われるようになり、大坂城を追放されてしまいました。これが徳川方の冬の陣の宣戦理由となり、家康は総勢20万の大軍で、秀頼のいる大阪城を包囲させました。

片桐且元
Katagiri_Katumoto.jpg

一方、豊臣方は、旧豊臣系の大名に味方するよう要請しましたが、応じるものはなく、真田幸村(信繁)後藤又兵衛の他、集められたのは浪人衆の寄せ集めでしたが、それでも10万の兵力になりました。
難攻不落の大阪城を力で攻め落とすのは無理と考えた家康は、大砲で威嚇射撃し、城に通じる坑道を掘り進めるといった心理戦に出ました。大砲の一発が、淀のいる櫓に命中し女房たちが数名吹き飛ばされて亡くなりました。これにはさすがの淀も恐怖に震えたといいます。

次に家康は講和工作を行い、初を豊臣方の代表、側室の阿茶の局を徳川方の代表として講和交渉を進め、12月講和が成立しました。
この時結ばれた講和条件は、二の丸、三の丸の破壊、城の周囲をめぐる水濠を埋めることでした。この時、淀が人質になるか、濠を埋めるかの要求に対し、秀頼と別居すること、すなわち人質になることに反対したのが浅井三姉妹の次女・初だったといいます。
講和が成立すると、家康は外堀だけでなく内堀も埋めてしまい、大阪城は裸城にされてしまいました。

大坂冬の陣において行われた戦いの一つである鴫野(しぎの)今福の戦いの舞台は、大阪の城東区を中心に行われました。

大和川を挟んで、北岸に今福村、南岸に鴫野村があり、鴫野には、徳川軍の上杉景勝、今福には佐竹義宣、豊臣軍には、後藤又兵衛、木村重成らが陣取っていました。

慶長19年(1614年)11月26日、徳川方が豊臣方を攻撃し戦闘が開始。
この地域は低湿地帯や田園で、戦には向いていませんでした。そのため、堤防上のみで戦闘が繰り広げられ、主に銃撃戦であったといいます。

以下、鴫野の戦いの詳細です。

豊臣方は鴫野村に三重に柵を設置し、井上頼次に兵2,000で守備させていた。徳川家康は今福村に付け城を築くため、今福・鴫野の両柵の奪取を命じた。鴫野へは上杉景勝勢5,000、後詰として堀尾忠晴、丹羽長重、榊原康勝が向かった。
11月26日早朝、上杉勢が鴫野の柵を攻撃、上杉麾下の安田能元、須田長義らにより柵は占拠され、井上頼次は討ち死した。豊臣軍では大野治長ら12,000が来援し反撃に転じた。上杉勢一番手は第一の柵まで後退し、二番手の水原親憲らに崩れかかりそうになるところ水原が大声で左右にどくよう指示、そのあとを追いかけてきた豊臣軍に鉄砲隊の一斉射撃を加えた。そこへ安田能元隊が槍を入れ、豊臣軍を撃退した。  (Wikipediaより)

JR鴫野駅から歩いて5分ほどのところにある城東小学校の校門横に、大阪冬の陣・鴫野古戦場の案内板、その後ろに石碑があります。

IMG_3404 鴫野

IMG_3403 鴫野

IMG_3707 B


 鴫野古戦場跡

古代の鴫野周辺は、上町台地を回り込むような河内潟の中に位置する低湿地であったが、堤防の造成などの治水工事が行われるにつれて開発が進み、中世にはいくつかの荘園が設けられていた。『熊野詣日記』に〈しきののわたり〉、『天文日記』に〈シキノツツミ〉とその名がみえる鴫野の地は、大和川や猫間川、平野川などいくつかの川が交錯することから、水上交通の拠点となっていた。慶長19年(1614)の大坂冬の陣に際しては、大坂方が防御のための柵をこのあたりに建設し、これをめぐって、佐竹義宣、上杉景勝らの東軍と後藤基次、井上頼次らの西軍が激しい戦闘をくりひろげたという。一説によると、この戦いが木村重成の初陣であるとされている。なお大正9年(1920)11月には、鴫野古戦場跡を顕彰するため、大阪朝日新聞などで新聞記者をつとめた小説家、漢学者である西村天囚による記念碑が建立されている。

平成七年三月大阪市教育委員会


IMG_3402 鴫野

鴫野古戦場跡の碑のある城東小学校の向かいにある八劒神社

IMG_3397 八劒神社

IMG_3398 八劒神社

大坂冬の陣で、東軍武将・上杉景勝はこの辺りに陣を敷いたそうです。

IMG_3401 冬の陣

当時この辺りは湿地帯で、陣を構える場所がこの辺りしかなかったそうです。

IMG_3387 八劒神社

上杉景勝は、大坂冬の陣においては徳川方に起請文を提出し、先発した直江兼続とともに出陣。二条城において家康と謁見し、鴫野の戦いなどで大功を挙げました。

応永3年(1396年)の創祀と伝えられ、速素盞鳴尊(はやすさのおのみこと)・水波能売神(みずはのめのかみ)を祭神としています。
宝暦年間に京都下鴨の神主が記録した社記によれば、応永のはじめのある夜、鴫野村住民の夢の中に一人の老翁が現れ、「吾は熱田の神なり、跡を此の地に垂れんと欲す。明日汝等出て来て吾を淀川の辺に迎えよ」とのお告げがあったので、翌日、村民十数人を呼んで河辺に来ると小蛇が陸に上がって行ったそうです。その姿は大変悠々としていて、一同がこれに従って行くと、小蛇は川を越えて当地に入り、その留まったところに小さな祠を建てて祀ったのが当社の始まりとされています。
(城東区HPより)

拝殿
IMG_3394 八劒神社

拝殿はガラス張りの近代的な建物です。

中に見えるのは、お食事をお供えする御餞殿(みけでん)

御餞殿
IMG_3395 八劒神社

本殿
IMG_3400 八劒神社

辨天社 戎神社 幸神社
IMG_3390 八劒神社

IMG_3391 八劒神社

境内には、だんじりを保管する蔵もあります。

地車庫
IMG_3388 八劒神社

また、八劔神社は、宮相撲が盛んだったそうで、境内に郷土宮相撲米川部屋頭取碑と、鴫野出身の力士・朝日山四郎右衛門の像があります。

IMG_3393 朝日山

お相撲さんには見えないな~ どこぞの武士かと思いました(^_^;)

IMG_3392 朝日山


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