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2023.09/24 [Sun]
上田の芳泉寺(3)稲姫(小松姫)の墓
稲姫は徳川家康の家臣である本多忠勝の娘で、家康の養女となり、真田信幸(のち信之)に嫁ぎました。小松姫、小松殿とも称されています。

犬伏で、夫の真田信幸と袂を分かった真田昌幸・信繁父子が、上田城に戻る際、沼田城に立ち寄り、舅の昌幸が、孫の顔が見たいので城の中に入れて欲しいと頼みますが、「舅といえども、今は敵。夫の留守中に入れることはできない。」と、稲姫は開門を拒否。この稲姫の行動に、「さすがは武士の妻」と昌幸は感心したといいます。
沼田城入城を諦めた昌幸・信繁は、近くの正覚寺に宿泊。すると、翌日、稲姫が子供たちを連れて正覚寺を訪ねてきます。この稲姫の機転に、昌幸らは、さらに感心したと伝えられています。
このエピソードには、諸説あり、真田氏の家記『滋野世記』によると、
「昌幸は信繁同道にて犬伏の宿を打立て、夜中沼田に著たまい。城中へ按内ありければ、信幸の室家使者を以て、夜中の御皈陣不審に候なり、此の城は豆州の城にて、自を預居候事なれば、御父子の間にて候え共、卒尓に城中へ入申事成難く候と仰ける(中略)。暫有て城中より門を開きけるに、信幸の室家甲冑を著し、旗を取り、腰掛に居り、城中留守居の家人等其外諸士の妻女に至るまで、皆甲冑を著し、あるいは長刀を持ち、あるいは弓槍を取り列座せり。時に信幸の室家大音に宣うは、殿には内府御供にて御出陣有し御留守を伺い、父君の名を偽り来るは曲者なり、皆打向って彼等を討ち取るべし(中略)、一人も打ち洩らさず打ち捕べしと下知したまう。昌幸その勢いを御覧ありて大いに感じたまい、流石武士の妻なりと称美あり。御家人等を制し止められ、夫より我妻かかり、上田城へ篭城なり」と記されています。
また、『改正三河後風土記』によれば、
稲姫は、昌幸から「今生の暇乞のため対面し、孫共を一見せばやと存候」との申し出を受けるが、これを断ると侍女を遣わして昌幸らを城下の旅宿に案内し丁重にもてなした。その一方で、城中の家臣には弓や鉄砲を狭間に配置させ相手方の襲撃に備えるように命じた。これを見た昌幸は家臣に向かって「あれを見候へ。日本一の本多忠勝が女程あるぞ。弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ」と、その手並みを褒め称えたと記され、このほかにも『御家書留書』『真田御武功記』『沼田記』『出浦助昌家記』などに沼田城の留守を守った逸話が記されています。
賢夫人として、真田家を支えた稲姫でしたが、1626年、病気療養のため江戸の真田藩邸から草津温泉に湯治に向かう途中、武蔵国鴻巣(現・埼玉県鴻巣市)の勝願寺で亡くなり、これを聞いた信之は、「わが家の燈火(ともしび)が消えたり。」といって悲しんだといういます。
稲姫の遺骨は、信之が菩提寺としていました「常福寺」(現・芳泉寺)に葬られました。
芳泉寺の本堂の裏側に、稲姫の墓があります。


芳泉寺のお墓は、信之が松代へ移封する際、小松姫の霊屋を、松代の大英寺に移すため、芳泉寺には分骨として残したものです。石塔の高さ3m余、塔身と下壇の石に姫の経歴が刻まれ、その終わりに「元和七年三月廿四日施主信之」と記されています。
稲姫の墓は、全部で4箇所あり、埼玉鴻ノ巣の勝願寺、群馬県沼田の正覚寺にも分骨があります。

稲姫のエピソードがここにも紹介されています。

このエピソードから、稲姫の女性らしい優しい一面も窺えます。
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犬伏で、夫の真田信幸と袂を分かった真田昌幸・信繁父子が、上田城に戻る際、沼田城に立ち寄り、舅の昌幸が、孫の顔が見たいので城の中に入れて欲しいと頼みますが、「舅といえども、今は敵。夫の留守中に入れることはできない。」と、稲姫は開門を拒否。この稲姫の行動に、「さすがは武士の妻」と昌幸は感心したといいます。
沼田城入城を諦めた昌幸・信繁は、近くの正覚寺に宿泊。すると、翌日、稲姫が子供たちを連れて正覚寺を訪ねてきます。この稲姫の機転に、昌幸らは、さらに感心したと伝えられています。
このエピソードには、諸説あり、真田氏の家記『滋野世記』によると、
「昌幸は信繁同道にて犬伏の宿を打立て、夜中沼田に著たまい。城中へ按内ありければ、信幸の室家使者を以て、夜中の御皈陣不審に候なり、此の城は豆州の城にて、自を預居候事なれば、御父子の間にて候え共、卒尓に城中へ入申事成難く候と仰ける(中略)。暫有て城中より門を開きけるに、信幸の室家甲冑を著し、旗を取り、腰掛に居り、城中留守居の家人等其外諸士の妻女に至るまで、皆甲冑を著し、あるいは長刀を持ち、あるいは弓槍を取り列座せり。時に信幸の室家大音に宣うは、殿には内府御供にて御出陣有し御留守を伺い、父君の名を偽り来るは曲者なり、皆打向って彼等を討ち取るべし(中略)、一人も打ち洩らさず打ち捕べしと下知したまう。昌幸その勢いを御覧ありて大いに感じたまい、流石武士の妻なりと称美あり。御家人等を制し止められ、夫より我妻かかり、上田城へ篭城なり」と記されています。
また、『改正三河後風土記』によれば、
稲姫は、昌幸から「今生の暇乞のため対面し、孫共を一見せばやと存候」との申し出を受けるが、これを断ると侍女を遣わして昌幸らを城下の旅宿に案内し丁重にもてなした。その一方で、城中の家臣には弓や鉄砲を狭間に配置させ相手方の襲撃に備えるように命じた。これを見た昌幸は家臣に向かって「あれを見候へ。日本一の本多忠勝が女程あるぞ。弓取の妻は誰もかくこそ有べけれ」と、その手並みを褒め称えたと記され、このほかにも『御家書留書』『真田御武功記』『沼田記』『出浦助昌家記』などに沼田城の留守を守った逸話が記されています。
賢夫人として、真田家を支えた稲姫でしたが、1626年、病気療養のため江戸の真田藩邸から草津温泉に湯治に向かう途中、武蔵国鴻巣(現・埼玉県鴻巣市)の勝願寺で亡くなり、これを聞いた信之は、「わが家の燈火(ともしび)が消えたり。」といって悲しんだといういます。
稲姫の遺骨は、信之が菩提寺としていました「常福寺」(現・芳泉寺)に葬られました。
芳泉寺の本堂の裏側に、稲姫の墓があります。


芳泉寺のお墓は、信之が松代へ移封する際、小松姫の霊屋を、松代の大英寺に移すため、芳泉寺には分骨として残したものです。石塔の高さ3m余、塔身と下壇の石に姫の経歴が刻まれ、その終わりに「元和七年三月廿四日施主信之」と記されています。
稲姫の墓は、全部で4箇所あり、埼玉鴻ノ巣の勝願寺、群馬県沼田の正覚寺にも分骨があります。

稲姫のエピソードがここにも紹介されています。

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2023.09/23 [Sat]
上田の芳泉寺(2)仙石氏の霊廟
本堂の西側に、上田城主・仙石氏の霊廟があります。

霊廟とは、墓とその霊魂を祀るお堂の一体をいうもので、江戸時代初期から中期にかけ、大名たちは家柄や禄高に応じた規模の霊廟をよく菩提寺などに建てていたそうです。
仙石氏は三代にわたり、84年間上田に在城しました。
真田信幸に代わり上田城主になった小諸城主の仙石忠政は、常福寺を修築し、小諸の菩提寺・宝仙寺をここに移し、その翌年、父・秀久の墓を改装し、秀久の戒名「円覚院殿宝誉道樹大禅定門」に因み、円覚院芳泉寺と改めました。
仙石氏の霊廟は、瓦葺コンクリート造りの塀に四面囲まれ、その中に小諸城主・秀久、忠政、二代城主・政俊、秀久の側室や長子(久忠)の墓があります。
政俊の墓は、総高188cmのやや大型の五輪塔ですが、秀久のものは総高202cmの舟型石塔で、ともに瓦葺宝形造の覆屋に収められています。
仙石秀久、忠政の霊廟

仙石秀久は、信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。
豊臣秀吉の最古参の家臣でしたが、秀吉の死後は、徳川方につきました。

関が原の戦いで東軍として参戦。
徳川秀忠の側近として、第二次上田合戦に参加、真田攻めのために小諸を本陣に定めた秀忠軍に参陣しました。
上田城で、秀忠軍が足止めを食うと、秀久は自身を真田家の人質に出して、秀忠を家康の本陣に向かうように薦め、また関ヶ原本戦に遅参して激怒する家康への謝罪に努めました。このことで、秀忠の信頼を得て、後に秀忠が征夷大将軍に任ぜられると特に重用されるようになり、信濃小諸藩の初代藩主となりました。
秀久は、領地の開拓や整備に取り組み、小諸城を大改修。24年の間に大手門や黒門、二の丸を増築、小諸城を近代城郭として完成させました。
仙石秀久の墓

秀久の次男の仙石秀範は、独断で西軍についた事から、父から廃嫡、勘当されて浪人となり、出家して京都で寺子屋の講師を務めていたといいます。
また、秀久の三男であり、秀範の弟の仙石忠政は、父と共に徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでは、東軍につき、上田城攻めに参加。この時の功により、徳川秀忠の「忠」の字を拝領して、久政から忠政と改めたといわれています。
仙石政俊は忠政の長男として小諸で生まれ、寛永5年(1628年)、父の死去により家督を継いで第2代上田藩主となりました。41年間の統治の中で、領内に灌漑用の溜池や堰(せぎ)などの築造と改修を積極的に行い、農業の振興や開発等に大きな業績を残しました。
仙石政俊の霊廟

塀の内側には、家臣が献上した名入りの石灯籠18基が並んでいます。

(上田市文化財マップ参照)
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霊廟とは、墓とその霊魂を祀るお堂の一体をいうもので、江戸時代初期から中期にかけ、大名たちは家柄や禄高に応じた規模の霊廟をよく菩提寺などに建てていたそうです。
仙石氏は三代にわたり、84年間上田に在城しました。
真田信幸に代わり上田城主になった小諸城主の仙石忠政は、常福寺を修築し、小諸の菩提寺・宝仙寺をここに移し、その翌年、父・秀久の墓を改装し、秀久の戒名「円覚院殿宝誉道樹大禅定門」に因み、円覚院芳泉寺と改めました。
仙石氏の霊廟は、瓦葺コンクリート造りの塀に四面囲まれ、その中に小諸城主・秀久、忠政、二代城主・政俊、秀久の側室や長子(久忠)の墓があります。
政俊の墓は、総高188cmのやや大型の五輪塔ですが、秀久のものは総高202cmの舟型石塔で、ともに瓦葺宝形造の覆屋に収められています。
仙石秀久、忠政の霊廟

仙石秀久は、信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。
豊臣秀吉の最古参の家臣でしたが、秀吉の死後は、徳川方につきました。

関が原の戦いで東軍として参戦。
徳川秀忠の側近として、第二次上田合戦に参加、真田攻めのために小諸を本陣に定めた秀忠軍に参陣しました。
上田城で、秀忠軍が足止めを食うと、秀久は自身を真田家の人質に出して、秀忠を家康の本陣に向かうように薦め、また関ヶ原本戦に遅参して激怒する家康への謝罪に努めました。このことで、秀忠の信頼を得て、後に秀忠が征夷大将軍に任ぜられると特に重用されるようになり、信濃小諸藩の初代藩主となりました。
秀久は、領地の開拓や整備に取り組み、小諸城を大改修。24年の間に大手門や黒門、二の丸を増築、小諸城を近代城郭として完成させました。
仙石秀久の墓

秀久の次男の仙石秀範は、独断で西軍についた事から、父から廃嫡、勘当されて浪人となり、出家して京都で寺子屋の講師を務めていたといいます。
また、秀久の三男であり、秀範の弟の仙石忠政は、父と共に徳川家康に仕え、関ヶ原の戦いでは、東軍につき、上田城攻めに参加。この時の功により、徳川秀忠の「忠」の字を拝領して、久政から忠政と改めたといわれています。
仙石政俊は忠政の長男として小諸で生まれ、寛永5年(1628年)、父の死去により家督を継いで第2代上田藩主となりました。41年間の統治の中で、領内に灌漑用の溜池や堰(せぎ)などの築造と改修を積極的に行い、農業の振興や開発等に大きな業績を残しました。
仙石政俊の霊廟

塀の内側には、家臣が献上した名入りの石灯籠18基が並んでいます。

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2023.09/22 [Fri]
上田の芳泉寺(1)四つの紋の入った山門
長野県上田市の芳泉寺は、歴代の上田藩主の菩提寺で、真田信幸(之)の正室・稲姫(小松姫)の墓がある寺院です。

後に真田氏に代わって、入封した仙石氏が改称するまでは、常福寺という名の寺でした。
山門



芳泉寺山門には六文銭と三つ葉葵の紋が入っており、徳川・真田の関係を表しています。
真田家の六文銭の紋

徳川家の三つ葉葵の紋

仙石氏の永楽通宝銭の紋

浄土宗月影杏葉の宗紋

境内から見た山門

不見の岩(別名:天狗の岩)


参道に沿って、カエルや鹿のオブジェや手入れの行き届いた庭があります。


浄土讃歌「芳泉寺」

日時計




鐘楼

本堂

本堂にも4つの紋が入っています。


この芳泉寺には、真田昌幸と室賀正武のエピソードが伝わっています。
室賀正武は、徳川家康から真田昌幸を暗殺を命令されますが、室賀一族の中にに昌幸に内応しているものがおり、暗殺計画の情報を知った昌幸は、逆に室賀を上田城に誘い出し、返り討ちにしました。
その後、室賀正武の妻子が自殺を図ろうとしますが、昌幸の指示で、常福寺(現・芳泉寺)の住職がこれを止めて、善光寺に逃がしたそうです。
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後に真田氏に代わって、入封した仙石氏が改称するまでは、常福寺という名の寺でした。
山門



芳泉寺山門には六文銭と三つ葉葵の紋が入っており、徳川・真田の関係を表しています。
真田家の六文銭の紋

徳川家の三つ葉葵の紋

仙石氏の永楽通宝銭の紋

浄土宗月影杏葉の宗紋

境内から見た山門

不見の岩(別名:天狗の岩)


参道に沿って、カエルや鹿のオブジェや手入れの行き届いた庭があります。


浄土讃歌「芳泉寺」

日時計




鐘楼

本堂

本堂にも4つの紋が入っています。


この芳泉寺には、真田昌幸と室賀正武のエピソードが伝わっています。
室賀正武は、徳川家康から真田昌幸を暗殺を命令されますが、室賀一族の中にに昌幸に内応しているものがおり、暗殺計画の情報を知った昌幸は、逆に室賀を上田城に誘い出し、返り討ちにしました。
その後、室賀正武の妻子が自殺を図ろうとしますが、昌幸の指示で、常福寺(現・芳泉寺)の住職がこれを止めて、善光寺に逃がしたそうです。
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なんといっても上田は真田。真田と言えば上田。
上田とは切っても切れないところ。
いろいろこうしてエピソードも教えたりしていただいて、
とても勉強になりうれしい事です。
今夜がそれは楽しみ以外ありませんから・・。🤩