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2023.03/27 [Mon]
家康が本陣を置いた龍尾神社
1568年、武田信玄に追われて掛川城に逃げ込んだ今川氏真と徳川家康との戦において、家康が本陣を置いたのが、掛川の龍尾神社の境内です。
半年に渡る激しい攻防戦の結果、氏真が掛川城を家康に明け渡す形になりました。
掛川城の北東(鬼門)に位置するため、その守護神として、山内一豊を初めとする歴代城主から崇敬を受けました。
また、一豊が高知城に移転した際、高知城下にも龍尾神社を勧請し、掛川に因んで掛川神社と命名しました。
その折、二代目・山内忠義より奉納された「蘇鉄」と「土佐の石」は社殿脇に現存しています。


拝殿

本殿

二代目・山内忠義奉納の蘇鉄

大己貴神社

通称「疱瘡神さま」といい、昔この地に天然痘が流行した際、病気平癒を祈願して勧請されたと伝えられています。
龍尾神社の境内北側に隣接する花庭園は、しだれ梅の開花状況に合わせ、毎年2月上旬から3月中旬頃まで開園します。



しだれ梅の間から掛川城を望むことができます。


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半年に渡る激しい攻防戦の結果、氏真が掛川城を家康に明け渡す形になりました。
掛川城の北東(鬼門)に位置するため、その守護神として、山内一豊を初めとする歴代城主から崇敬を受けました。
また、一豊が高知城に移転した際、高知城下にも龍尾神社を勧請し、掛川に因んで掛川神社と命名しました。
その折、二代目・山内忠義より奉納された「蘇鉄」と「土佐の石」は社殿脇に現存しています。


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二代目・山内忠義奉納の蘇鉄

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通称「疱瘡神さま」といい、昔この地に天然痘が流行した際、病気平癒を祈願して勧請されたと伝えられています。
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- [今川氏真(どうする家康)]
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2023.03/26 [Sun]
掛川城(3)掛川城御殿
掛川城御殿は、儀式・公式対面などの藩の公的式典の場、藩主の公邸、藩内の 政務をつかさどる役所という3つの機能を合わせ持った施設です。掛川城御殿 は二の丸に建てられた江戸時代後期の建物で、現存する城郭御殿しては、京都 二条城など全国で4箇所しかない貴重な建築物です。 書院造りと呼ばれる建築様式で、畳を敷き詰めた多くの部屋が連なり、各部屋 は襖で仕切られています。当初は本丸にも御殿が作られましたが、老朽化した り災害にあって、二の丸に移りました。 その後、江戸時代の藩の政治や大名の生活が偲ばれる貴重な建物として、昭和 四十七年から五十年まで保存修理が実施され、昭和五十五年一月二十六日、国 の重要文化財に指定されました。
嘉永七(安政元、1854)年、安政の東海大地震で御殿が倒壊したため、時の 城主太田資功によって安政2年(1855)年から文久元(1861)年にかけて再建 されたのが現在の御殿で、明治元(1868)年までの間、掛川藩で使われました。
掛川城御殿は七棟からなる書院造で、部屋はそれぞれの用途に応じ約20部屋に分かれています。最も重要な対 面儀式が行われる書院棟は、主室の御書院上の間と、謁見者の控える次の間・三の間からなります。 藩主の公邸の小書院棟は、藩主執務室である小書院と、藩主の居間として使われた長囲炉裏の間からなりま す。東側は藩政をつかさどる諸役所の建物で、目付・奉行などの役職の部屋、警護の詰所、帳簿付けの賄方、 書類の倉庫である御文証などがあります。小書院棟の北側には勝手台所がありましたが、明治時代に撤去さ れてしまいました。 江戸時代には身分によって入り口が異なっており、藩主や家老は式台玄関から、その他の武士は玄関東側か ら、足軽は北側の土間から入りました。(掛川城HPより)



ここから中に入ります。

三の間




次の間



御書院上の間


小書院


次の間


長囲炉裏の間

井伊家橘の紋

朝比奈家の紋

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嘉永七(安政元、1854)年、安政の東海大地震で御殿が倒壊したため、時の 城主太田資功によって安政2年(1855)年から文久元(1861)年にかけて再建 されたのが現在の御殿で、明治元(1868)年までの間、掛川藩で使われました。
掛川城御殿は七棟からなる書院造で、部屋はそれぞれの用途に応じ約20部屋に分かれています。最も重要な対 面儀式が行われる書院棟は、主室の御書院上の間と、謁見者の控える次の間・三の間からなります。 藩主の公邸の小書院棟は、藩主執務室である小書院と、藩主の居間として使われた長囲炉裏の間からなりま す。東側は藩政をつかさどる諸役所の建物で、目付・奉行などの役職の部屋、警護の詰所、帳簿付けの賄方、 書類の倉庫である御文証などがあります。小書院棟の北側には勝手台所がありましたが、明治時代に撤去さ れてしまいました。 江戸時代には身分によって入り口が異なっており、藩主や家老は式台玄関から、その他の武士は玄関東側か ら、足軽は北側の土間から入りました。(掛川城HPより)



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2023.03/25 [Sat]
掛川城(2)天守閣
掛川城天守閣は、地震による倒壊で、天守は再建されず、天守台などの遺構が残るのみでしたが、平成6年(1994)、市民や地元企業などから10億円の募金を集めて戦後初となる木造による天守が再建され、掛川のシンボルとなっています。


山内一豊と千代の顔出し看板

こんな方に出会いました!





軍配

軍扇



功名が辻で使われた幟

天守閣から見た御殿

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あいにくの天気で満開ザクラも見送り。
岡崎行ききょうと思ってましたがやめました。
ゆっくりと、こうして記事拝見してるがいちばん。
掛川城御殿なんていうものがあるんでしたか。
知らないだけ、恐れ入りましたという感じで今も、
じっくり見せていただきました。
ありがとうございました。今夜楽しみです・・。🤩