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2021.03/04 [Thu]
井伊直弼ゆかりの埋木舎(2)
客人を応接する表座敷、日常生活や勉学に励んだ奥座敷、茶室などを展示資料と照らし合わせて見ることができ、当時の生活ぶりがうかがえます。


この屋敷には直弼が「澍露庵(じゅろあん)」と名付けた小さな茶室がありました。



表玄関に掲げられた「大久保」の表札は、直弼の側近であった大久保小膳が治維新に際し藩文書の保存や彦根城天守閣の保存運動の功績によって埋木舎が与えられたことによります。

現当主の大久保治男氏の祖先は、藤原氏の末流で、大久保忠正が初代。
井伊直政に仕えて以来、累代、彦根藩家老などを務める家柄でした。大久保小膳の尽力により埋木舎が取り壊されずに済み、その功績によって代々当主を務めました。
(Wikipediaより



井伊直弼と大久保小膳

また、NHK大河ドラマで井伊直弼を演じた役者さんのパネルが飾られています。















皆さんは、どの大老が心に残っていますか?
現在は、ここに「西郷どん」で直弼を演じる佐野史郎さんが加わっているかと思います。
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この屋敷には直弼が「澍露庵(じゅろあん)」と名付けた小さな茶室がありました。



表玄関に掲げられた「大久保」の表札は、直弼の側近であった大久保小膳が治維新に際し藩文書の保存や彦根城天守閣の保存運動の功績によって埋木舎が与えられたことによります。

現当主の大久保治男氏の祖先は、藤原氏の末流で、大久保忠正が初代。
井伊直政に仕えて以来、累代、彦根藩家老などを務める家柄でした。大久保小膳の尽力により埋木舎が取り壊されずに済み、その功績によって代々当主を務めました。
(Wikipediaより



井伊直弼と大久保小膳

また、NHK大河ドラマで井伊直弼を演じた役者さんのパネルが飾られています。















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- [青天を撞け:井伊直弼(青天を撞け)]
- TB(0) |
- CO(4)
- [Edit]
- *PageTop
2021.03/03 [Wed]
井伊直弼ゆかりの埋木舎(1)
次回の「青天を撞け」に、井伊直弼が登場するようなので、過去の記事ですが、彦根の埋木舎の記事を再アップします。
埋木舎は、彦根城佐和口御門に近い井伊家の屋敷跡で、幕末における幕府の大老・井伊直弼が藩主になるまでの15年間青春時代を過ごした館です。
この屋敷は、直弼が入居する70年前、1759年に藩の公館(北の御屋敷)として建築されました。


彦根藩井伊家では、藩主の子であっても世子以外は、他家に養子に行くか、家臣の養子となってその家を継ぐか、あるいは寺に入るのが決まりで、行き先が決まらない間は、父が藩主の間は下屋敷(槻御殿)で一緒に暮らすが、兄が藩主になると城下の「控え屋敷」に入って宛行扶持(あてがいぶち、捨扶持(すてぶち))で暮らすこととされ、北の御屋敷は控え屋敷の一つでした。
彦根藩主の十四男として生まれた井伊直弼は、5歳のとき母を失い、17歳のとき隠居していた父井伊直中(11代藩主)が亡くなり、弟の井伊直恭とともにこの控え屋敷(尾末町御屋敷、北の御屋敷)に入りました。20歳のとき、養子縁組の話があるというので。弟とともに江戸に出向きましたが、決まったのは弟の縁組(直恭は日向国延岡藩内藤家7万石の養子となる)だけでした。直弼はしばらく江戸にいましたが、彦根に帰り
「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」
という和歌を詠み、自ら「埋木舎」と名付けました。(Wikipedia参照)

埋木舎時代の直弼は、長野主膳に国学を学び、曹洞禅、儒学、洋学、書、絵、和歌のほか、剣術・居合・槍術・弓術・ 砲術・柔術などの武術、乗馬、茶の湯など多数の趣味に没頭し、特に居合では新心流から新心新流を開き、茶の湯では「宗観」の名を持ち、石州流を経て一派を確立。他にも能面作り、湖東焼、楽焼にも造詣が深かったといいいます。
この館は明治4年、払い下げによって大久保氏の所有になり、現在に至っています。
1984年(昭和59年)の豪雪で倒壊。その後解体修理され、直弼が住んでいたころのように復元されました。
庭には柳が植えられており、直弼は柳をことのほか愛し、号にも「柳王舎」を使うことが多かったといいます。

また、直弼はある時、外出先で非常に立腹する事があったが、帰宅して庭に植えられた柳を見て
むっとして 戻れば庭に 柳かな
という句を読み心を落ち着けたと言われています。
現在、埋木舎は大人300円で見学できます。




御籠

井伊直政(万千代・虎松)が幼少期に描いた絵も飾られていました。

ドラマでもそうでしたが、たしかに絵がお上手!!


直弼が、埋木舎時代に客人接待用に使用していた食器の漆器類。

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埋木舎は、彦根城佐和口御門に近い井伊家の屋敷跡で、幕末における幕府の大老・井伊直弼が藩主になるまでの15年間青春時代を過ごした館です。
この屋敷は、直弼が入居する70年前、1759年に藩の公館(北の御屋敷)として建築されました。


彦根藩井伊家では、藩主の子であっても世子以外は、他家に養子に行くか、家臣の養子となってその家を継ぐか、あるいは寺に入るのが決まりで、行き先が決まらない間は、父が藩主の間は下屋敷(槻御殿)で一緒に暮らすが、兄が藩主になると城下の「控え屋敷」に入って宛行扶持(あてがいぶち、捨扶持(すてぶち))で暮らすこととされ、北の御屋敷は控え屋敷の一つでした。
彦根藩主の十四男として生まれた井伊直弼は、5歳のとき母を失い、17歳のとき隠居していた父井伊直中(11代藩主)が亡くなり、弟の井伊直恭とともにこの控え屋敷(尾末町御屋敷、北の御屋敷)に入りました。20歳のとき、養子縁組の話があるというので。弟とともに江戸に出向きましたが、決まったのは弟の縁組(直恭は日向国延岡藩内藤家7万石の養子となる)だけでした。直弼はしばらく江戸にいましたが、彦根に帰り
「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」
という和歌を詠み、自ら「埋木舎」と名付けました。(Wikipedia参照)

埋木舎時代の直弼は、長野主膳に国学を学び、曹洞禅、儒学、洋学、書、絵、和歌のほか、剣術・居合・槍術・弓術・ 砲術・柔術などの武術、乗馬、茶の湯など多数の趣味に没頭し、特に居合では新心流から新心新流を開き、茶の湯では「宗観」の名を持ち、石州流を経て一派を確立。他にも能面作り、湖東焼、楽焼にも造詣が深かったといいいます。
この館は明治4年、払い下げによって大久保氏の所有になり、現在に至っています。
1984年(昭和59年)の豪雪で倒壊。その後解体修理され、直弼が住んでいたころのように復元されました。
庭には柳が植えられており、直弼は柳をことのほか愛し、号にも「柳王舎」を使うことが多かったといいます。

また、直弼はある時、外出先で非常に立腹する事があったが、帰宅して庭に植えられた柳を見て
むっとして 戻れば庭に 柳かな
という句を読み心を落ち着けたと言われています。
現在、埋木舎は大人300円で見学できます。




御籠

井伊直政(万千代・虎松)が幼少期に描いた絵も飾られていました。

ドラマでもそうでしたが、たしかに絵がお上手!!


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2021.03/02 [Tue]
築地の軍艦操練所跡
東京の築地市場駐車場前に軍艦操練所跡の案内板があります。


軍艦操練所跡
ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政四年(1857)4月、旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設しました。
万延元年(1860)正月に講武所が神田小川町(現在の千代田区)に移転をした後には、跡地一帯は軍艦操練所の専用地とされました。元治元年(1864)3月には焼失して、南隣の広島藩主浅野家下屋敷のあった場所(絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転をしています。
設立当初は旗本永井尚志が総督をつとめ、長崎の海軍伝習所修業生を教授方としていました。その後、向井将監や勝海舟等が頭取をつとめました。
慶応元年(1865)7月、新たに海軍奉行を置き、慶応2年7月には海軍所と改称されました。同年11月には再び類焼して現在の旧浜離宮庭園の地に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建てられました。
中央区教育委員会
東京都中央区築地6丁目20番
この案内板、気をつけて歩いていないと見逃してしまいます。
私ははじめ通り過ぎて勝鬨橋の方まで行ってしまいました(^_^;)
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軍艦操練所跡
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万延元年(1860)正月に講武所が神田小川町(現在の千代田区)に移転をした後には、跡地一帯は軍艦操練所の専用地とされました。元治元年(1864)3月には焼失して、南隣の広島藩主浅野家下屋敷のあった場所(絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転をしています。
設立当初は旗本永井尚志が総督をつとめ、長崎の海軍伝習所修業生を教授方としていました。その後、向井将監や勝海舟等が頭取をつとめました。
慶応元年(1865)7月、新たに海軍奉行を置き、慶応2年7月には海軍所と改称されました。同年11月には再び類焼して現在の旧浜離宮庭園の地に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建てられました。
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忠臣蔵が第一作かと思っていました。
その頃(昭和38年)は、大河は全く見ていません。
TVの思い出は植木等さんで映画は石原裕次郎さんでした。
私の青春時代もはるか遠くになりました。
ところで、このしずかさんブログ、第一位なんですね。