大河ドラマに恋して

NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」「八重の桜」「平清盛」「江」の史跡巡りと歴旅紀行

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徳川信康の菩提寺・清瀧寺(2)信康の廟所

清瀧寺の本堂、を通り、徳川信康の廟所へと向かいます。

IMG_9028 清瀧寺

本堂
IMG_9033 本堂

IMG_9029 清瀧寺

IMG_9030 岡崎三郎信康

この階段の上に徳川信康の廟所「信康廟」があります。

IMG_9039 信康廟

IMG_9040 信康廟

IMG_9005 清瀧寺

IMG_9005 清瀧寺2

IMG_9041 信康廟

信康廟
IMG_9042 信康廟

IMG_9043 信康廟

右から
三方原合戦にて討死した青木吉継、中根正照、二俣城主だった大久保忠世、信康の小姓殉死した吉良於初

IMG_1869 B

IMG_1870 B

IMG_1863 B

IMG_9035 鐘楼

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徳川信康の菩提寺・清瀧寺(1)

清瀧寺は、浜松市天竜区にある京都の知恩院の末寺で、山号は信康山といいます。

IMG_1842 B

天正7年(1579)9月15日徳川家康の嫡男・徳川信康(岡崎次郎三郎信康)が二俣城において自害。

IMG_9017 清瀧寺

信康の遺体は、二俣城から峰続きにある小松原長安院に葬られ、翌年、家康によって廟所と位牌堂が建立されました。その後、家康が同院を訪れた際、清涼な滝があるのを見て寺の名を清瀧寺と改めさせたといいます。

武田軍が二俣城の水の手を断つために筏を流して破壊したという井戸櫓が復元されています。

IMG_9018 井戸櫓

信康堂
IMG_9024 信康堂

IMG_9023 信康堂

IMG_9022 信康像

IMG_9020 信康像

IMG_9019 信康像

IMG_9011 岡崎三郎信康

諏訪神社
IMG_9014 諏訪神社

IMG_9015 諏訪神社

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徳川信康が自刃した二俣城

IMG_9072 二俣城入り口

IMG_9067 現在地

この急な階段を上っていきます。

IMG_9071 二俣城

当時、武田軍が急な坂道で手こずったというのがうなづけます。

IMG_9047 二俣城

まだまだ続く階段(..;)

IMG_9048 二俣城

そして現れるのが、旭ヶ丘神社

IMG_9050 旭ヶ丘神社

この辺りが、北曲輪だったそう。

IMG_9051 旭ヶ丘神社

IMG_9052 二俣城

本丸跡

IMG_9053 本丸

主な遺構として本丸、天守台、二の丸、曲輪、蔵屋敷などが残っています。

IMG_9055 二俣城跡の碑


天守台跡
IMG_9060 天守閣跡

IMG_9054 二俣城

IMG_9057 天守閣跡

IMG_9061 二俣城

二の丸跡
IMG_9064 二の丸

城山稲荷神社
IMG_9065 城山稲荷神社


二俣城址

二俣城の構造
 標高90mの台地上に築かれた二俣城は、北側から北曲輪(くるわ)・本丸・二之曲輪・蔵屋敷・南曲輪がほぼ一直線上に配置されている。天守台のある本丸の南・北にそれぞれ虎口(こぐち)を設け、北虎口は喰(く)い違い虎口である。本丸西側には小規模な天守台が残っており、石積みは野面積みである。本丸の南側には二之曲輪があり、枡形(ますがた)門跡がある。二之曲輪と蔵屋敷の間、そして蔵屋敷と南曲輪の間にはそれぞれ堀切(ほりきり)がある。

歴代二俣城主
 二俣には現在、城跡が三か所ある。この城山(しろやま)のすぐ南にある「鳥羽山城」、現在、市庁舎が建つ「笹岡城」、そしてこの城山の「二俣城」である。これらの三城はわずか2km程の距離内にあり、当時、この一体は「二俣郷」と呼ばれていた。このようなことから、当時の文書に「二俣城」と見えてもどの城を指すのか確定するのは難しい。
 ここでは、「笹岡城」を斯波・今川両氏の抗争期から永禄期(1500年前後〜1560年)までと考え、「二俣城・鳥羽山城」を徳川・武田両氏の抗争の場となった永禄期から元亀・天正・慶長初年(〜1600年前後)までと考え、文書を基に歴代二俣城主を紹介する。

二俣城をめぐる攻防
 永禄11年(1568)12月から天正3年(1575)12月までの7年間、二俣城は、徳川・武田両氏の攻防の舞台となった。二俣城は天竜川と二俣川の合流点に位置する天然の要害であり、しかも、二俣は遠江の平野部と北遠の山間地方とを結ぶ交通路の結接点で、遠州平野の「扇の要」であったからである。

<元亀3年の攻防>
 元亀3年(1572)10月、武田信玄は大軍を率い、信濃を経て遠江に進入し二俣城を攻撃した。武田軍は力攻めの方法をとらず、城の水の手を断つ作戦を選んだ。徳川軍の城兵が崖に櫓(やぐら)を建て、釣瓶(つるべ)で天竜川から水を汲み上げているのを知り、上流から筏を流して井戸櫓の釣瓶を破壊した。こうして2か月ほどで二俣城は陥落した。

<天正3年の攻防>
 天正3年(1575)5月、長篠の戦で勝利を得た徳川軍は、武田勢を一掃すべく二俣城の攻撃に着手した。鳥羽山に本陣を置き、毘沙門堂(びしゃもんどう)・蜷原(になはら)・渡ケ島に砦(とりで)を築き二俣城を包囲した。武田軍は7か月で兵糧(ひょうろう)が底をつき城を明け渡した。そして、二俣城には大久保忠世が入城し、徳川氏が関八州へ移封する天正18年(1590)まで在城した。
 この間大規模な修築がなされ、天守台を始めとする諸施設を構築したと考えられる。

徳川信康自刃事件
 
 大久保忠世が在城中に起こった事件として、有名なものに家康の嫡子(ちゃくし)信康自刃(じじん)事件がある。
 一般には、信康とその母築山(つきやま)御前が武田氏と通じていたことを理由に、織田信長が信康を切腹させるように家康に命じたとされている。
 家康はこれを受けて信康を天正7年(1579)9月15日、二俣城で切腹させた。この事件は戦国哀史として広く知られている。

平成8年11月1日 浜松市教育委員会 (案内板より)

天正7年(1579年)9月15日、幽閉先であった二俣城(浜松市天竜区)にいた徳川信康に切腹が命じられました。

介錯人は服部正成だでしたが、正成は主命とはいえ主筋に刃を向けることが出来ず、検死役の天方道綱が代わって介錯にあたったといいますが・・・

この信康自刃事件には、諸説あります。

通説

『三河物語』によると、織田信長の娘である徳姫は今川の血を引く姑の築山殿との折り合いが悪く、信康とも不和になったので、天正7年(1579年)、父・信長に対して12箇条の手紙を書き、使者として信長の元に赴く徳川家の重臣・酒井忠次に託した。手紙には信康と不仲であること、築山殿は武田勝頼と内通した、と記されていたとされる。信長は使者の忠次に糺したが、忠次は信康を全く庇わず、すべてを事実と認めた。この結果、信長は家康に信康の切腹を要求した。徳川家中では、信康への処断に対して反対する声が強く、信長との同盟破棄を主張する家臣もあった。傅役の平岩親吉は、責任を自分が被り、自らの首を信長に差し出すことを求めた。しかし家康は、徳川家の老臣が既に認めてしまった以上、そのような小細工では信長の怒りを反らすことは出来ないと判断し、信康の処断を決断した。

父子不仲説

近年では、家康が信長に要求された為というより、家康と信康の対立が原因という説が唱えられるようになった。
『三河物語』では信長は「(信康を)切腹させよ」と答えているが、『安土日記』(『信長公記』諸本の中で最も古態をとどめているもの)や『当代記』では、信長は「信康を殺せ」とは言わず、「家康の思い通りにせよ」と答えている。これは家康自身の事情で築山殿と信康を葬り去ったということのようである。また信康処断の理由は「逆心(=謀反)」であり、家康と信康の間に問題が起こったため家康の方から忠次を遣わし、嫁の父である信長に相談したと読み取れる。また『家忠日記』によると、事件が起きる前年の天正6年(1578年)9月22日に、家康から三河国衆に対して、(信康のいる)岡崎に詰めることは今後は無用であるとの指示が出されたことが記されている。さらに家康は、信康を岡崎城から追放した際、信康と岡崎衆の連絡を禁じて自らの旗本で岡崎城を固め、家忠ら岡崎衆に信康に内通しないことを誓う起請文を出させており、家康と信康の間で深刻な対立があったことが伺える。

派閥抗争説

常に前線で活躍し武功と出世の機会を多くつかんでいた浜松城派と、怪我で戦えなくなった者の面倒や後方支援や(織田家との)外交問題を担当していた岡崎城派に分裂する兆しがあり、両者の対立が家康と岡崎城派に担がれた信康との対立に発展し、最終的に信康が幽閉先で服部正成に暗殺された疑いがあるとして、この事件から甲斐武田家における武田義信事件のように信康を担いで岡崎衆による「家康追放」未遂事件があったとする説

驚くことに生存説まであります。

生存説

葬られた信康の遺体は替え玉で、本人は同情した家臣達に助けられ、浜松山中の村に逃れたという説(Wikipediaより)

さて、どれが真実なのでしょうか。
今となっては真相は、歴史の闇の中ですね。

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