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2022.12/03 [Sat]
阿野時元の墓
源頼朝の異母弟である阿野全成の四男・阿野 時元は、父の全成が建仁3年(1203年)鎌倉幕府第2代将軍・源頼家と対立して殺害された時、北条時政や北条政子の尽力もあって連座を免れ、父の遺領である駿河国東部の阿野荘に隠棲しました。
建保7年(1219年)1月、従兄弟の第3代将軍・源実朝が殺害されると、翌月(承久元年2月11日)挙兵しますが、思うように兵を集めることができないうちに、北条政子が執権・北条義時命じて派遣した御家人・金窪行親の手勢に討ち取られました。
『承久記』は、最期は自害であったと伝えています。
全成・時元の墓は、静岡県沼津市東井出の大泉寺にあります。

阿野全成(今若)は、源頼朝挙兵時に参加に加わり功績をあげ、阿野荘(現在の井出から原にかけての地域)を賜まり館を建て、先祖の霊を弔うために大泉寺を建立。
全成の弟の源義経が、兄の源頼朝に追われ奥州に逃れた際に、大泉寺に立ち寄り、全成と涙ながらに語り合ったといわれています。



伝阿野全成・時元墓
阿野全成は、幼名は今若丸といい清和源氏の嫡男源義朝の七男です。鎌倉幕府を開いた頼朝の異母弟、義経の同母兄にあたり、母は有名な常磐御前です。
頼朝の死後、建仁3年(1203)5月、全成は阿野庄において兵を挙げましたが、幕府軍に捕らえられ常陸国へ配流となり、同年6月23日、下野国で処刑されました。首は阿野庄の全成館へ届けられたと伝えられています。
その後、全成の遺児時元も承久元年(1219)2月11日、反北条の兵を挙げましたが、執権北条義時はただちに兵を差し向け、交戦10日の後に阿野一族は敗北して、時元も自刃しました。
墓は、左が阿野全成、右が時元と伝えられています。
沼津市教育委員会

大泉寺の全成の墓には首のみ埋葬されているそうです。
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建保7年(1219年)1月、従兄弟の第3代将軍・源実朝が殺害されると、翌月(承久元年2月11日)挙兵しますが、思うように兵を集めることができないうちに、北条政子が執権・北条義時命じて派遣した御家人・金窪行親の手勢に討ち取られました。
『承久記』は、最期は自害であったと伝えています。
全成・時元の墓は、静岡県沼津市東井出の大泉寺にあります。

阿野全成(今若)は、源頼朝挙兵時に参加に加わり功績をあげ、阿野荘(現在の井出から原にかけての地域)を賜まり館を建て、先祖の霊を弔うために大泉寺を建立。
全成の弟の源義経が、兄の源頼朝に追われ奥州に逃れた際に、大泉寺に立ち寄り、全成と涙ながらに語り合ったといわれています。



伝阿野全成・時元墓
阿野全成は、幼名は今若丸といい清和源氏の嫡男源義朝の七男です。鎌倉幕府を開いた頼朝の異母弟、義経の同母兄にあたり、母は有名な常磐御前です。
頼朝の死後、建仁3年(1203)5月、全成は阿野庄において兵を挙げましたが、幕府軍に捕らえられ常陸国へ配流となり、同年6月23日、下野国で処刑されました。首は阿野庄の全成館へ届けられたと伝えられています。
その後、全成の遺児時元も承久元年(1219)2月11日、反北条の兵を挙げましたが、執権北条義時はただちに兵を差し向け、交戦10日の後に阿野一族は敗北して、時元も自刃しました。
墓は、左が阿野全成、右が時元と伝えられています。
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NoTitle
きのうもそでしたが、
この様なところはまったく知らなくて、
恥ずかしながら記事を拝見しているところです。
そうでしたか鎌倉でしたか。
自分は徳川家ご三家のひとつ、
徳川園にきのう行き家康の展示物観てきました。
来年の大河宣伝していました‥。🤩