Category [源義経 ] 記事一覧
大歳神社(2)義経の勝守
またここは、義経が必勝祈願をした地に建てられたという神社で有名です。義経は有明山に富士の小松を植え、富士浅間の大歳神を祀り、弓矢を神前に捧げた。その後、祈念を注いだ桑の弓矢を平知盛の率いる平家軍に射込んだために、驚いた平家軍は壇ノ浦に進んだが、源範頼軍と義経軍との挟み撃ちに合い、滅亡したという。(大歳神社の由緒より)寿永四年(一一八五年)、平家追討の任を受けた源義経は、壇之浦の合戦に望んで、己が武...
義経の最期・衣川合戦
文治3年(1187)2月、奥州に逃亡した義経は、河越重頼の娘である北の方と、数え年2歳になる娘を伴っていました。それから2年あまりの日々が過ぎ、文治5年(1189)閏4月30日、衣川館(岩手県平泉町高館)を藤原泰衡が差し向けた軍勢に襲われて、持仏堂に籠りました。なぜ泰衡は、義経を追い詰めたのでしょうか?義経をかくまってきた藤原秀衡が、文治3年死去。義経が奥州に逃れてきて間もなくのことでした。その際、秀衡は、遺言として...
壇ノ浦の戦い(6)源氏再建の甲宗八幡神社
860年、清和天皇が創建。続いても門司の源平ゆかりの神社です。860年、清和天皇が創建。神功皇后が三韓を征した時に着用したと言われる甲が御神体です。「甲宗」という社名は甲を御神体とすることによるもので、50年に一度の御神体拝観の儀は、前回は2008年(平成20年)に執り行われました。寿永4年(1185年)、源平の戦い後、源範頼、義経兄弟は戦いで荒れた社殿を再建しました。F2ブログランキングに参加しています。クリックよろ...
壇ノ浦の戦い(4)満珠・干珠
神功皇后が龍神から授けられた二つの珠(満つる珠、干つる珠)から生まれたという伝説の島で、忌宮神社の飛地境内にあたります。原生林に覆われた島は、天然記念物に指定されていますが、残念ながら観光客が島に入ることはできないそうです。壇ノ浦合戦では、源氏の軍船がこの島周辺に集結しました。源義経にとって、壇ノ浦合戦は初の水戦であり、水戦が苦手な東国の兵を率いていました。また、敵地の地理や水路についての情報に疎...
壇ノ浦の戦い(1)源義経・平知盛・安徳天皇・二位尼時子の像
壇ノ浦の戦いは、寿永4年3月24日(1185年4月25日)に壇ノ浦(山口県下関市)で行われた治承・寿永の乱の最後の戦いです。源氏軍の大将・源義経は、800艘の船団を編成、対する平家軍は、平知盛を総大将に、500艘の船団を編成。関門海峡の西側の彦島に陣を張りました。海上戦が得意な平家軍は、戦の序盤は、平家優勢で進んでいました。この時、関門海峡の潮の流れは、平家側から源氏側に流れていて、源氏軍を満珠島・干珠島付近まで...
最新コメント