Category [松平容保 ] 記事一覧
「八重の桜」ゆかりの寺・金戒光明寺
半年ぶりに金戒光明寺へ行って来ました。高麗門 修復を終えた山門の特別公開とともに、伝・運慶作「文殊菩薩像」、「虎の襖絵」のほか、新島八重の写真や直筆の和歌、松平容保の遺墨、藩士の鎧兜などゆかりの寺宝が特別公開されているので、山門、御影堂、大方丈、庭園を見学して来ました。 山門 山門は、楼上内部の天井一面に「蟠龍図」が描かれており、京都市内を一望できます。しかし、山門からの眺めの撮影もNGでした(;O;)紫雲...
晩年の松平容保
松平容保は、会津戦争後は鳥取藩にお預けの身となり、東京に移されて蟄居しましたが、嫡男の容大が家名存続を許され華族に立てられました。容保はそれから間もなく蟄居を許され、明治13年(1880年)には日光東照宮の宮司となり、また会津藩の家老であった西郷頼母も宮司を補佐する禰宜職に就任しました。その頼母は、明治になって名字を変え、保科近悳と名乗っていました。松平容大西郷頼母当時の東照宮は、幕府からの庇護を失い、...
松平容保が逗留した清浄華院
清浄華院(しょうじょうけいん)は京都御所のすぐ東側に位置し、寺伝によれば平安時代に清和天皇の勅願により円仁が開基したとされています。京都御所に近いことからしばしば上洛する幕府要人や大名の宿所となりました。幕末には、御所警備を担当した肥後熊本藩や阿波徳島藩、薩摩藩、会津藩などの藩士の宿所となりました。特に会津藩は松平容保が半年ほど逗留したそうです。清浄華院のHPによると、「文久3年(1863)八月十八日の...
松平容保と日光東照宮
松平容保は、会津戦争後は鳥取藩にお預けの身となり、東京に移されて蟄居しましたが、嫡男の容大が家名存続を許され華族に立てられました。容保はそれから間もなく蟄居を許され、明治13年(1880年)には日光東照宮の宮司となり、また会津藩の家老であった西郷頼母も宮司を補佐する禰宜職に就任しました。その頼母は、明治になって名字を変え、保科近悳と名乗っていました。松平容大西郷頼母当時の東照宮は、幕府からの庇護を失い、...
松平容保生誕の地・美濃高須藩上屋敷(2)
この神社から案内板に沿って歩いて行くと、津の守弁財天と策の池(むちのいけ)があります。徳川家康がタカ狩りの時近くにあった井戸水で策を洗ったので策の井戸と呼ぶとか。 策の池江戸時代の古書「紫の一本(ひともと)」によれば徳川家康がタカ狩りの時近くにあった井戸水で策を洗ったので策の井戸と呼び、澄んだこの水が高さ四メートルに及ぶ滝となりこの池に注いでいたので策の池と呼ばれ「十二社の滝」「目黒不動の滝」...
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