Category [山本覚馬 ] 記事一覧
山本覚馬の墓
会津藩の砲術師範であった父・権八・母・佐久の長男として誕生。幼少から優秀で、藩校日新館で学びました。22歳、25歳の二度にわたり、江戸に出て、佐久間象山の塾で西洋砲術を学び、28歳の時会津に戻り、藩校日新館の教授となって、蘭学所を開設。教授として、出石藩医の子・川崎尚之助を招へいしました。蘭学所開設と前後して、覚馬はうらと結婚。文久2年(1862)、京都守護職に就任した会津藩主・松平容保に従って、京に上り、寺...
舎密局跡
京都市バス河原町二条より200メートルほどのところに、舎密局跡があります。明治2年(1869年)に大阪、翌明治3年(1870年)に京都にそれぞれ設置され、前者を「大阪舎密局」、後者を「京都舎密局」といいます。京都府顧問となった山本覚馬は、理化学・工業技術の研究・普及を目的とした施設を立ち上げるため、自分の洋学所に通っていた明石博高(ひろたか)を迎え、京都の近代産業を担う人材を育成しました。ビール・ガラス・石け...
薩摩藩邸跡
慶応4年(1868)年1月、鳥羽・伏見の戦争が勃発。これにより、覚馬は捕えられ、薩摩藩邸にて幽閉されます。覚馬は、この頃、既に失明していたといわれています。薩摩藩首脳部は、覚馬の優秀さを知っており、決して粗末に扱わなかったといいます。この幽閉中、覚馬は、同年6月、薩摩藩主に「管見」をを口述筆記して提出。この中で、女性への教育の重要性を指訴えました。この管見を読んだ小松帯刀、西郷隆盛らはますます敬服、一層待...
山本覚馬邸跡
薩摩藩邸に幽閉されていた山本覚馬は、新政府首脳陣・西郷隆盛や岩倉具視らにより建白書「管見」を高く評価され、釈放。明治3年(1870年)、京都府顧問として登用されました。当時、権大参事として府政の実権を握っていた槇村正直の顧問として、小中学校・女学校・病院・医学校などの設立に尽力し、京都鉄道の敷設願書を当局に提出するなど、京都の近代化に貢献しました。当時、覚馬は、槇村正直の屋敷の隣りに住んでいたとされ、...
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