Category [徳川慶喜 ] 記事一覧
大政奉還~鳥羽伏見の戦い
第2次長州出兵失敗した幕府は衰退。薩長同盟による倒幕の動きが強まったため、徳川慶喜は前土佐藩主・山内豊信の勧告に従い、慶応3年(1867)10月14日に政権の朝廷返上を明治天皇に上奏し、翌日朝廷がこれを受け入れました。大政奉還の舞台となった二条城の唐門諸大名を集め、大政奉還を発表した二の丸御殿の大広間(一の間)には、等身大の人形でその様子が再現されています。毛利敬親・元徳父子は、慶応3年(1867年)12月、官位復...
徳川慶喜の墓
徳川慶喜の墓は、寛永寺の墓地である谷中墓地にあります。慶喜は華族の最高位である「公爵」を与えてくれた明治天皇に感謝の意を表すため、自分の葬儀を仏式でなく神式で行うよう遺言を残し、一般皇族と同じような円墳が建てられました。中に入ることはできませんが、門越しに見ることはできます。正面には徳川慶喜公事蹟顕彰碑があります。その奥の左側が徳川慶喜の墓で、右にあるのが美賀子夫人の墓です。慶喜の墓美賀子夫人の墓...
徳川慶喜終焉の地
文京区春日2丁目の、国際仏教学大学院大学の前に、「徳川慶喜終焉の地」の案内板が立っています。 徳川慶喜終焉の地 春日2-8 徳川幕府最後の将軍慶喜は、水戸藩主斉昭の七男として、天保8年(1837)小石川の上屋敷(現小石川後楽園一帯)で生まれた。 その後、御三家の一橋家を相続した。ついで、幕末の動乱のさなか、長州攻めの陣中で没した第十四代将軍家茂のあとを継ぎ、慶応2年(1866)第十五代将軍となった。 翌、慶応3...
徳川慶喜ゆかりの尊攘苑
京都東山の建礼門院ゆかりの長楽寺に、徳川慶喜ゆかりの「尊攘苑」(水戸烈士墓所)があると最近知りました。昨年の秋、建礼門院特別展に出かけた際、たしかに、「この先、京都の街を一望できる」との看板を見たのですが、前日の雨で足場が悪かったため、上るのは止めたのです。尊攘苑はその先にあったのですね。尊攘苑には、頼山陽、頼三樹三郎親子、慶喜の弟である松平昭訓、慶喜の側近・原市之進ら水戸藩士の墓があり、徳川慶喜...
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