Category [川崎尚之助 ] 記事一覧
晩年の川崎尚之助(2)称福寺
貧しい食生活、心労がたたっのか、慢性肺炎を患い、3人目の身元引受人・根津親徳が東京医学校病院(現・東京大学病院)に入院させましたが、明治8年(1875)裁判中の東京で肺炎のため死去したとされています。八重が、新島襄と婚約したのは、奇しくも尚之助の亡くなった年でした。川崎尚之助の遺体は、根津親徳に引き取られ、東京都台東区今戸の称福寺に埋葬されといいます。しかし、今では尚之助の墓の跡もなく、詳細は不明です。逸...
晩年の川崎尚之助(1)鳥越明神
川崎尚之助は、天保7年(1836年)11月、但馬国において、出石藩の医師・川崎才兵衛の子として生誕生。後、江戸に出て、坪井為春らに蘭学、舎密術(化学)を学び、会津藩の山本覚馬と出会い、会津藩藩校・日新館の蘭学所において蘭学を教授し、鉄砲・弾薬の製造も指導。慶応元年(1865年)、山本覚馬の妹・八重(後の新島八重)と結婚。会津戦争では、八重と共に鶴ヶ城籠城戦に参加。会津戦争後に、八重と離別したという説もあるが...
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