Category [荒木村重 ] 記事一覧
荒木村重と名物茶器
あの男が再登場!茶人として帰って来ました。天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で亡くなると、荒木村重は堺に居住。茶人として千利休らと親交を持ち、利休十哲の一人となります。しかも、秀吉のお伽衆になり、秀吉が出陣中、村重が秀吉の悪口を言っていたことが北政所に知れため、出家して荒木道薫(どうくん)となりました。はじめは過去の過ちを恥じて「道糞」(どうふん)と名乗っていましたが、秀吉は村重を許し、「道...
花隈城跡
荒木村重関連の記事まだ続きます(#^.^#)阪急電鉄神戸高速線の花隈駅から徒歩3分、花隈城跡があります。正面の石垣JR元町と高速鉄道花隈駅の中間に花隈公園があり、この公園の中にあるのが、花隈城跡なのですが、花隈公園は、城の一部にすぎず、実際の城は、東西約350m、南北約200mの範囲だったと推定されています。地下は駐車場となっています。花隈城は、中国地方に勢力を伸ばすため、織田信長が荒木村重に1574年に修築、一年程...
有岡城落城後の荒木一族
荒木村重の逃亡について「陰徳太平記」では、「荒木家老の者共さし寄りて村重を諫めて云く、つらつら城中の形勢を見るに、毛利家の援兵も今は頼み少なく、徒らに月日を送り給う故、兵糧甚だ乏しく成り候。此上し別に行も候はじ、只早く大将尼崎へ御出有りて、中国・西国の諸将を語らはれ候はば、定めて援兵を出さるべきかにて候。先ず一旦城中を忍びて御出ありて、随分御智謀をめぐらされ候へと、衆口一舌に勧めけり。村重是を聞き...
尼崎を訪ねて(1)荒木村重が逃げた行った尼崎城とは?
天正7年(1579年)9月2日夜半、荒木村重は、船で猪名川を下って5、6名の側近を引き連れ、嫡男・村次がいる有岡城を脱出して尼崎城へ(大物城)移っていきました。現在、尼崎城と呼んでいるのは、元和3(1617)年に戸田氏鉄が築城した尼崎城を指し、村重時代の城は、大物城(別名・尼崎城)でした。尼崎城と大物城とは別の城であるとの説が有力とされているのですが、尼崎城が大物城の跡地に築かれたという説もあり、いまだに議論の決...
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