Category [高山右近 ] 記事一覧
高槻を歩く(7)理安寺と藤井竹外の邸跡
理安寺は、高槻城の鬼門に当たる位置にある寺町にあります。光誉上人が創建したといわれ、元和5年(1619年)、高槻城主・松平家信が夫人の菩提を弔って理安寺を再興させました。以来、松平氏の菩提寺として繁栄しました。家信の次男で後に高槻藩主となった康信のときには、寺領や鐘楼などの寄進を受け、大いに栄えたといいます。古くは「利生安国」から利安寺と称していたそうです。墓地には、江戸時代末期の儒学者で、漢詩人・藤井...
高槻を歩く(6)光松寺
高槻の光松寺は、創建年月は不詳ですが、寺伝によると、僧・良元が結んだ草庵が始まりと伝えられています。当初は高槻城内にありましたが、永禄年間(1558~1569年)の高山右近の高槻城改築にあたり、この地に移転し、光明寺から顕空登順上人を迎え開山としたと伝えられています。顕空登順上人が本堂を創建し、後に庫裡、観音堂、鐘楼堂、客殿、玄関、土蔵などが増築されました。1995年(平成7年)の阪神大震災により被災。本堂は1...
高槻を歩く(5)本行寺
高槻の本行寺は、元々は高槻大蔵司村付近の丘陵に建てられた日蓮宗本照寺という寺で、戦国時代になり、三好元長、細川晴元の外護を受けて隆盛を極めますが、法華一揆、天文法華の乱により堂宇を焼失。その後三好長慶により毘沙門堂として再興されますが、高山右近の時代に焼き討ちされ、日蓮聖人像(祖師像)のみが住職により備前国に逃れたとされています。慶長元年(1596年)、一如院日重上人(後に身延山二十世法主)が、弾圧下...
高槻を歩く(4)高槻城三の丸跡
高槻市立歴史民俗資料館歴史民俗資料館は、江戸時代中頃、城下の紺屋町に建てられていた商家を移築復元したもので、ふるさとの暮らしや生業を語る生活用具、農具・漁具などの民俗文化財を保存、展示しています。ここへ行ったのは4月上旬。菜の花が満開でした。高槻市立しろあと歴史館高槻城三の丸跡の一画に建つ高槻市立しろあと歴史館。江戸時代の高槻を、資料や映像、模型などで楽しく紹介しています。残念なことに、資料館も歴...
高槻を歩く(3)高槻城跡
高山右近天主教会堂跡から高槻市立第一中学校の道を進んでいくと、高槻城跡公園があります。室町時代は入江氏の居城でしたが、織田信長の有力武将であった和田惟政が城主になりました。元亀2年(1571年)の白井河原の合戦で惟政は戦死。惟政の家臣であった高山飛騨守・高山右近父子が惟政の子・惟長を追放して城主となり、右近が秀吉に明石へ転封されるまで12年間この地を治めました。明治7年(1874年)に廃城となり、東海道線が敷...
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