Category [清水宗治 ] 記事一覧
備中高松城(6)清水宗治自刃之跡
ごうやぶ遺跡の近くに、清水宗治公自刃之跡があります。顕彰の記 天正10年6月4日 浮世をば 今こそ渡れ武士の名を 高松の苔に残して と辞世の句を詠じて自刃せられたる高松城主清水長左衛門宗治公の至誠を後世に伝え怨親平等正邪一如の見地より両軍戦没者の霊を併せ弔らはんが為め瀬野妙光大法尼は十方有縁の士を結集して昭和38年5月8日此の地に大供養塔を建立し開眼法要を営む。 茲に大法尼の遺徳をたたえ後孫及び同志相はかり...
備中高松城(5)ごうやぶ遺跡
ごうやぶ遺跡は、田んぼの真中に柵で囲ってあるところです。死出の清水宗治の舟を追って、僕たちが「一足お先に三途の川で待っています」と言って刺し違えたといいます。もうひとつ古い案内板がありました。FC2ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願い致します。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協...
備中高松城(4)清水宗治の胴塚
中断してしまいましたが、備中高松城の記事の続きです。本丸跡から少し北へ進むと、住宅街の中に「胴塚」があります。清水宗治の首無き胴体を手厚く葬った後、船上で宗治の介錯を行った家臣が、自ら首を斬って自刃し、亡き主人の後を追ったいいます。FC2ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願い致します。にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日...
備中高松城水攻め(2)
秀吉は信長が討たれたとの報せに動揺しましたが、この時、官兵衛が「ようやく運が開けましたな。光秀を討てば、天下がまわってきましょう。」と秀吉を奮い立たせたのではないかとの説があります。秀吉は気を取直し、一刻も早く毛利と和睦して光秀を討つべく上洛する方針を固め、信長の死を毛利方に隠したまま、翌6月4日に安国寺恵瓊を呼び、先の5か国から、備中・美作・伯耆の3か国に譲歩、清水宗治自刃を和睦条件として提示する...
備中高松城の戦い(1)
天正9年(1581年)11月、黒田官兵衛は淡路島から、羽柴秀吉は鳥取から姫路に帰還し、二人は備中攻めの準備に取り掛かりました。天正10年(1582年)3月、秀吉軍は総勢2万の大軍を率いて姫路を出発し、同年4月に宇喜多秀家の岡山城に入り、宇喜多勢1万を加えて総勢3万の軍勢で備中へ向かいました。備中高松城は平城ですが、周囲を沼に囲まれ、これが天然の堀となっており、非常に攻めにくい構造をしていました。城主・清水宗治が、5000...
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