Category [前原一誠 ] 記事一覧
萩紀行(82)弘法寺
萩市土原の弘法寺寺の縁起によれば、大同2年(807)弘法大師が唐から帰朝の際、松本川下流の中州(浮島)に船が漂着したところが現在の弘法寺の境内地で、弁才天が老翁に姿を変えて大師を招き寄せたといわれ、その縁によって、大師が自分の像を彫刻して、衆生結縁の場としたことに始まるといわれています。その後荒廃していましたが、16世紀後半に隆澄が再興。第4世覚尊の代に堂宇の整備を行い、第5世還我代、貞享4年(1687)に浮...
萩の乱(2)烈士殉難之地
萩の松陰神社の中の松門神社の脇に建つこの烈士殉難之地の石碑は、明治9年(1876)、萩の乱で殉難した前原一誠をはじめとする7烈士の遺徳を顕彰するために、萩の乱より100年にあたる昭和51年(1976)年に建立されたものです。松陰神社旧社殿は松門神社として移築し、塾生・門下生を御祭神として昭和31年(1956)に創建されました。 前原一誠元は7烈士が処刑された萩市恵美須町にありましたが、萩の乱から130年となることを記念して...
萩の乱(1)前原一誠旧宅地
萩市土原に前原一誠の旧宅があります。天保5年(1834年)、長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七の長男として誕生。天保10年(1839年)、郡吏となった父とともに厚狭郡船木村(山陽小野田市)に移住し、幼少期を過ごしました。安政4年(1857年)、久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門。その後、長崎で洋学を修め、のちに藩の西洋学問所・博習堂で学びますが、文久2年(1862年)に脱藩し、久坂...
萩紀行(9)松陰神社 烈士殉難之地
松門神社の横に建つこの烈士殉難之地の石碑は、明治9年(1876)、萩の変で殉難した前原一誠をはじめとする7烈士の遺徳を顕彰するために、萩の変より100年にあたる昭和51年(1976)年に建立されたものです。前原一誠元は7烈士が処刑された萩市恵美須町にありましたが、萩の変から130年となることを記念して、平成18年(2006)12月3日萩の變130年祭に併せてここに移設されました。前原一誠幕末・明治の志士・萩藩士。字は士明・子明...
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