Category [周布政之助 ] 記事一覧
周布政之助の碑と墓
山口市周布町の周布公園には、周布政之助の碑が建っています。周布町に周布公園・・・周布さんの名前がついているのですね。周布政之助の碑背の高い見事な碑でびっくりポンです!(@_@;)周布政之助は、村田清風の後を継ぎ、藩財政の建て直しを図り、財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力し、吉田松陰の門下生の桂小五郎や高杉晋作らを中枢に登用しますが、相州防備の藩財政の悪化により失脚。 その後、再び藩政に復帰...
東光寺の元治甲子殉難烈士墓所
吉田松陰誕生地近くの萩市大字椿東字椎原にある東光寺は、元禄4年(1691年)萩藩3代藩主・毛利吉就が建立しました。総門三門墓所には、元治元年(1864)、禁門の変の責任を負って自刃した益田右衛門介、国司信濃、福原越後の三家老の墓があります。三家老の墓の左には、長州征伐の責を負って自刃した周布政之助の墓があります。三家老の墓の両側には、反対派により野山獄で処刑された渡邊内蔵太、山田亦介、竹内正兵衛、楢崎弥八郎、...
萩紀行(38)周布政之助旧宅地
萩市土原に、周布政之助旧宅地があります。周布氏は益田氏の支流にあたり、近世以降は代々長州藩毛利家に仕えました。周布政之助は、村田清風の後を継ぎ、藩財政の建て直しを図り、財政再建や軍制改革、殖産興業等の藩政改革に尽力し、吉田松陰の門下生の桂小五郎や高杉晋作らを中枢に登用しますが、相州防備の藩財政の悪化により失脚。その後、再び藩政に復帰。文久2年(1862年)頃に藩論の主流となった長井雅楽の航海遠略策に同...
萩紀行(37)旧周布家長屋門
周布 政之助(すふ まさのすけ)政之助は通称であり、諱は兼翼(かねすけ)といiい、変名に麻田公輔、松岡敬助など。政之助は、周布吉左衛門の五男として生まれ、父と長兄が相次ぐ死で、わずか生後6ヵ月で家督を相続することに。天保11年(1840)18歳で明倫館に入学、弘化4年(1847年)に祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢されます。嘉永元年(1848)、明倫館の都講となり、同6年、椋梨藤太に替わって政務筆頭となり、財政再建や軍制改革...
最新コメント