Category [松平信康 ] 記事一覧
若宮八幡宮 徳川信康の首塚(岡崎)
愛知県岡崎市朝日町にある若宮八幡宮には、徳川家康の長男・徳川信康の首塚があります。信康は、永禄2年(1559)3月6日、駿府で生まれました。今川氏の人質として幼少期を駿府で過ごし、桶狭間の戦いの後に徳川軍の捕虜となった鵜殿氏長・氏次との人質交換により岡崎城に移ります。永禄10年(1567)織田信長の娘・徳姫と結婚し、家康が浜松城に移った元亀元年(1570)に岡崎城主になり、祖父・松平広忠同様に岡崎三郎と名乗りました。信...
徳川信康の菩提寺・清瀧寺(2)信康の廟所
清瀧寺の本堂、を通り、徳川信康の廟所へと向かいます。本堂この階段の上に徳川信康の廟所「信康廟」があります。信康廟右から三方原合戦にて討死した青木吉継、中根正照、二俣城主だった大久保忠世、信康の小姓殉死した吉良於初にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
徳川信康の菩提寺・清瀧寺(1)
清瀧寺は、浜松市天竜区にある京都の知恩院の末寺で、山号は信康山といいます。天正7年(1579)9月15日徳川家康の嫡男・徳川信康(岡崎次郎三郎信康)が二俣城において自害。信康の遺体は、二俣城から峰続きにある小松原長安院に葬られ、翌年、家康によって廟所と位牌堂が建立されました。その後、家康が同院を訪れた際、清涼な滝があるのを見て寺の名を清瀧寺と改めさせたといいます。武田軍が二俣城の水の手を断つために筏を流し...
徳川信康が自刃した二俣城
この急な階段を上っていきます。当時、武田軍が急な坂道で手こずったというのがうなづけます。まだまだ続く階段(..;)そして現れるのが、旭ヶ丘神社この辺りが、北曲輪だったそう。本丸跡へ主な遺構として本丸、天守台、二の丸、曲輪、蔵屋敷などが残っています。天守台跡二の丸跡城山稲荷神社二俣城址二俣城の構造 標高90mの台地上に築かれた二俣城は、北側から北曲輪(くるわ)・本丸・二之曲輪・蔵屋敷・南曲輪がほぼ一直線上...
信康の菩提寺・清瀧寺
二俣城跡から信康の菩提寺・清瀧寺に行って来ました。信康の遺体は、二俣城から峰続きにある小松原長安院に葬られ、翌年、家康によって廟所と位牌堂が建立されました。その後、家康が同院を訪れた際、清涼な滝があるのを見て寺の名を清瀧寺と改めさせたといいます。武田軍が二俣城の水の手を断つために筏を流して破壊したという井戸櫓が復元されています。信康廟入口の宝筺印塔。右から三方原合戦にて討死した青木吉継、中根正照、...
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