Category [保科正之 ] 記事一覧
明暦の大火の犠牲者を供養する回向院
明暦大火の犠牲者のための供養塔が両国の回向院の境内にあります。回向院のHPによると「回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸...
明暦の大火
明暦3年(1657年)1月18日に起きた明暦の大火による被害は江戸時代最大で、江戸の三大火の一つに挙げられます。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、死者は3万から10万人に及んだとされています。江戸城天守はこれ以後、再建されませんでした。この火災は、本郷・小石川・麹町の3箇所から連続的に発生したもので、一つ目火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生しました。当...
目黒成就院のお静地蔵
3代将軍家光が保科正之の存在を知ることになったエピソードについては、新井白石の「藩翰譜」に記述されています。目黒で鷹狩りをしていた家光が休憩しに成就院を訪れた際、「我々は将軍家の御供の者だが、ここで少し休ませてはもらえないだろうか」と自らの身分を隠して寺に入りました。その時の住持の僧による世間話の中で、「保科肥後守殿は、今の将軍家の正しき御弟だというのに、わずかな領地しかもらえず、貧しい暮らしをし...
保科正之(2) その政治力 江戸城の天守が再建されなかったわけ
3代将軍家光の正之に対する信頼は、終生続いたといいます。正之は、次期将軍家綱の烏帽子綾に抜擢され、家光の死後、遺命により甥の4代将軍家綱の補佐役となりました。正之は、幕府経営に力を注ぎ、武断政治から文治政治へと切り替え役を務めました。家綱時代の三大美事として、末期養子の禁を緩和、殉死の禁止、大名証人制度の廃止がありますが、これには正之が関わっていたのではないかとみられています。また、当時の江戸は人口...
保科正之(1)その生涯
会津松平家初代、陸奥会津藩初代藩主・保科正之は、江戸幕府第3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍家綱を補佐した人物です。徳川秀忠の子でありながら、庶子ゆえ、少年時代は不遇ともいえる道を送りますが、異腹の兄・家光に見出されてからは、家光の影となり、徳川幕府を支えていきます。まずは、正之の出生から辿っていきましょう。2代将軍・徳川秀忠は、自分の乳母である大姥局に仕えていた侍女のお静と関係を持ち、お...
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