Category [真田昌幸 ] 記事一覧
九度山を訪ねて(3)真田庵 「真田地主大権現」と真田昌幸の墓・幸村の供養塔
真田昌幸の墓・幸村の供養塔真田地主大権現このお寺で、怒った姿の真田昌幸の霊がたびたび見られるようになり、大安上人が昌幸の霊をこの地の大権現の神様にして祀ったところ、穏やかな顔になった昌幸が現れ、そして祀ってもらったお礼にこの地を守ると約束しました。それがこの真田地主大権現です。土砂堂にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキン...
真田昌幸の最期・長谷寺の昌幸の墓(上田)
関ヶ原の戦後処理において、徳川家康より真田昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下されましたが、東軍に属した長男の信幸(信之と改名)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居となりました。昌幸は慶長5年(1600年)12月13日に上田城を発ち、高野山へ。昌幸の正室・山之手殿は上田に残留し、次男の信繁とその妻子、さらに池田長門・原出羽・高梨内記・小山田治左衛門・田口久左衛門・窪田作之丞・関口角...
関ヶ原の戦いと砥石城
「真田丸」では、あっという間に、関ヶ原の合戦が終わってしまいました(@_@;)三谷さんの斬新な脚本に驚かれた方が多いでしょう(^_^;)そして、三成ロスになっている方もいらっしゃるのでは・・・そこで、当ブログは、「関ヶ原の戦いと石田三成」週間として、記事をまとめていきます。砥石城(戸石城)は、東太郎山の尾根上に築かれた本城を中心に、北の枡形城、南西の米山城(小宮山城)、南の戸石城などを含めた複合城郭。南の上...
真田父子犬伏の別れ
慶長5年(1600年)7月、徳川家康は、上杉討伐のため、関東へ下り、真田昌幸もこれに従いました。一方、家康の留守中に、石田三成が挙兵し、諸大名に家康弾劾の13ヵ条の書状を送り多数派工作を始め、昌幸は下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)で書状を受け取ったと言われています。この時、昌幸は真田家の去就を決めるため、息子の真田信幸・真田信繁らと会議を開きます。昌幸は宇多氏を通じて三成と姻戚にあった関係から次男・信繁と...
真田の郷(16)山家神社「真田神社」
境内には、かつて白山寺という寺院が建てられていましたが、明治維新の神仏分離令によって廃寺となり、その跡地に真田神社が建立され、真田一族と戦没者の英霊を祭神として祀っています。真田神社真田神社の鬼瓦にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。応援よろしくお願いします!にほんブログ村歴女日記ブログランキングに参加しています。ご協力お願いしますm(__)m歴女日記 ブログランキングへ...
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