Category [西郷隆盛(西郷どん) ] 記事一覧
土佐の旅(21)西郷宿舎・燕雀楼跡
今日は、昨年の「西郷どん」ゆかりの地です。慶応2年(1866年)に薩長同盟を締結した薩摩藩は、長州藩の名誉回復に尽力するとともに、幕府主導ではなく、朝廷を中心とした公武合体の政治体制へ変革したいと考えました。そこで薩摩藩の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通らは雄藩諸侯らを上京させて、長州問題・兵庫開港問題などの国事を議する会議を画策します。慶応3年2月16日、西郷隆盛は、山内容堂に京での四侯会議に出席して貰う...
西南戦争の戦没者を祀る南洲神社~西郷南洲記念館
南洲神社(なんしゅうじんじゃ)は、鹿児島市上竜尾町に鎮座する神社で、西郷隆盛及び、西南戦争における戦没者(桐野利秋,篠原国幹,村田新八,永山盛弘,辺見十郎太,池上貞固,別府晋介,大山綱良,島津啓次郎,中津隊など)を祀っています。明治10年(1877年)9月24日、官軍の総攻撃によって西郷隆盛以下薩軍が全滅し西南戦争が終結すると、鹿児島県令岩村通俊は官軍の許可を得て西郷隆盛らの遺体を鹿児島市内5か所に仮埋葬した。明治12...
西南戦争 西郷隆盛終焉の地
西郷隆盛洞窟から徒歩約10分、カゴシマシティビュー「薩摩義士碑前」バス停から徒歩5分ほどの鹿児島市城山町に、西郷隆盛終焉の地があります。 明治10(1877)年9月24日未明、城山を包囲した政府軍は一斉に砲撃を開始。薩軍は、城山を駆け下り、最後の抵抗をします。しかし、西郷隆盛は洞窟を出て300mほどくだったところで、腰と太ももに銃弾を受けました。別府晋介に「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と介錯を頼み、襟を正し...
西南戦争 城山の西郷洞窟
カゴシマシティビューで「 西郷洞窟前」で下車。明治10(1877)年2月、鹿児島城下を出発した薩軍は、九州各地で転戦したのち、8月に解散。その後西郷隆盛率いる一行は九州の宮崎・鹿児島の山岳部を踏破し、9月1日、鹿児島に入り、城山を占拠。西郷は、薩軍と政府軍との西南戦争の最終段階の城山攻防戦において、明治10年(1877)9月19日から24日未明にかけて、薩軍の指揮をとりながら、最後の5日間をこの洞窟で過ごしたいいます。現在...
西南戦争 鶴丸城の石垣の弾痕
鶴丸城は、慶長6年(1601年)頃に、島津家18代家久が築いた島津氏の居城で、背後の城山と麓の居館からなる城でした。正面中央には、御楼門がありましたが、明治6年(1873)の火災で焼失。 遺構として、石垣や堀、西郷隆盛の私学校跡地である出丸跡、大手門との間に架かる石橋が現存しています。大手橋昭和28年9月7日に県の史跡に指定されました。石垣には西南戦争の際についたといわれる弾痕が数多く残っています。 御角櫓跡御角櫓は...
最新コメント