Category [久坂玄瑞(西郷どん) ] 記事一覧
禁門の変(6)禁門の変の戦死者の墓
京都霊山護国神社には、禁門の変などで亡くなった志士たちのお墓があります。長州藩士の墓久坂玄瑞の墓久坂の隣には、同じく禁門の変で戦死した来嶋又兵衛、明治維新を目前にして病死した高杉晋作久坂と刺し違えた寺嶋忠三郎、槍で刺されて亡くなった入江九一、そして久坂、寺嶋らとともに鷹司邸内で自刃した有吉熊次郎久坂玄瑞の墓は、この他にも、萩の吉田松陰誕生地の団子岩、下関の桜山神社にもあります。萩市椿東椎原の護国山...
禁門の変(4)久坂玄瑞終焉の地・鷹司邸跡
堺町御門は、京都御苑の南側にある門で、丸太町通に面しています。堺町御門1863(文久3)年8月18日、朝廷内の孝明天皇、中川宮、公武合体派の公家、会津、薩摩藩らは、三条実美ら激派の公卿7人と尊皇攘夷派の中心である長州藩を京都から追放する政変を起こしました。 堺町御門警備担当の長州藩が御門に集結した時、門は会津・薩摩藩兵で固められ、門内に入ることは許されませんでした。 政変の結果、長州藩兵は京都から追放され、...
七卿落ち(1)八月十八日の政変
上京した久坂玄端は、三条実美らの尊攘派公卿と組んで、朝廷工作に努め、攘夷をするよう働きかけ、京都での主導権を握りました。幕府に、文久3年(1863年)5月10日を攘夷決行の日と約束させ、長州藩はそれを実行に移し、下関の海峡を通過する外国船を砲撃しました。しかし、長州藩は、その後、欧米艦隊から報復攻撃を受けますが、近隣の諸藩は傍観するのみ、攘夷実行を約束した将軍家茂も、京を離れ江戸に帰ってしまいました。一方、...
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