Category [斎藤道三 ] 記事一覧
妙覚寺の秋の特別拝観(2)斎藤道三の遺言状
さて、特別拝観は、こちらで受付を済ませて中に入ります。千利休による茶会も開かれていた妙覚寺は、斎藤道三との関係が深く、父とされる松波庄五郎(長井新左衛門尉)は妙覚寺で得度しており(のち還俗)、また道三の四男は十九世の日饒。日饒は織田信長にとっては義弟にあたります。そして小見の方との娘が織田信長の正室に嫁いだ濃姫です。また、長良川の戦いの前夜には日饒上人に美濃の一国は信長に譲ることや妙覚寺の管首ことも...
斎藤道三vs斎藤義龍 長良川の戦いと道三の墓所
1556年(弘治2年)4月、斎藤道三と長男・斎藤義龍との間で行われた長良川の戦いで、道三が戦死。斎藤道三合戦後、首実検を行い、義龍のもとに道三の首が運ばれてきた時、義龍は「我が身の不徳より出た罪」と出家し、唐の故事で、止むを得ない事情により父親を殺した者の名とされてきた「はんか(范可/飯賀)」と名乗りました。(『信長公記』)首実検を終えた義龍軍は、大良口の織田信長の陣所にも兵を差し向け、両軍は大良の河原...
川原町の町並み
長良橋の鵜飼観覧船のりばから南西へ広がる川原町には、格子戸のある町屋古い町並みが今も残っています。川原町は、狭い間口に長い奥行きという昔ながらの日本家屋が軒を連ねる集落で、斎藤道三や織田信長は、物流の中心となる長良川に着目して町を整備しました。川原町という名は、湊町・玉井町・元浜町一帯の総称として古くから使われてきました。 斉藤道三・信長の時代に市場が開かれ、商業の拠点として繁栄し、江戸時代には長...
道三塚
岐阜市長良福光の住宅地の一角に斎藤道三が葬られという道三塚があります。斎藤道三は、嫡男の斎藤義龍との「長良川の戦い」で討死にし、その遺体が道三塚に葬られました。斎藤家の菩提寺であった常在寺の日椿上人が、現在地に移し、供養碑を建てたといわれています。岐阜市指定史跡道三塚 昭和三十年十二月二十二日指定 弘治二年(一五五六)四月十八日、戦国大名斎藤道三は、その嫡子斎藤...
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