Category [青天を衝け ] 記事一覧
渋沢栄一の墓
渋沢栄一は、明治期を通じて民間の銀行や企業など、500以上の組織の設立に関与し、日本資本主義の発展に貢献しました。1916年に実業界を引退し、以後は教育や文化事業などに尽力しました。90歳になっても眼鏡なしで新聞や本を読み、自分のことはほとんだできたという栄一。91歳の頃のエピソードが残っています。風邪で寝込んでいた栄一のもとに、生活困窮者を救うための救護法の予算化に尽力いて欲しいとの依頼があった際、すぐに...
栄一が開発に携わった門司港
渋沢栄一は港湾設備が地域発展に果たす役割を重視し、門司、若松、大船渡など各地の築港事業に関与しました。門司港は、栄一が設立に携わった会社により整備され、築港会社創立時には相談役に就任しています。門司は開港により急成長を遂げ、周辺にある明治~大正期から現存する建築物は、観光スポットとなっています。以下、2018年に旅した時のレポです。門司駅周辺を散策開始ブルーウィングもじ全国で最大級の歩行者専用のはね橋...
日本初の西洋式劇場「帝国劇場」の発起人となった栄一
渋沢栄一は、幼いころより、生まれ故郷の深谷の獅子舞などの郷土芸能に興味を示し、文化芸術活動の支援にも尽力しました。パリのオペラ座で、観劇した経験から、劇場の必要性を感じた栄一は、本格的な西洋式劇場の建設にも着手し、帝国劇場建設の発起人に名を連ね、となる帝国劇場を日比谷に建設しました。帝国劇場では、西洋音楽やオペラ、創作劇などが上演されました。また、「日本の近代女第一号」と称された川上貞奴が創設した...
洞春寺 井上馨の墓
山口市の洞春寺は、応永11年(1404)大内盛見に国清寺として建てられました。毛利氏の時代になり、広島の吉田から常栄寺が移り、常栄寺も幕末に宮野に移転。明治2年(1869)に萩から洞春寺が入り、毛利元就の菩提寺となりました。また、井上馨を総督とする鴻城隊が、本陣を長寿寺からここ洞春寺(当時は常栄寺)へ移して駐屯しました。井上馨の分霊が祀られています。山門(重文)は、大内氏時代の国清寺のものといわれる四脚門です。鐘...
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