Category [井伊直弼(青天を衝け) ] 記事一覧
坂下門外の変
坂下門外の変は、1862年(文久2)1月、水戸浪士らが江戸城坂下門外で、登城途中の老中・安藤信正を襲撃した事件です。1860年(万延1)3月、大老・井伊直弼が殺害されたのち、幕閣の中心に立った信正は、尊王攘夷派の幕政批判を緩和するために、首席老中久世広周(ひろちか)と共に公武合体政策を推し進めました。その政策として、同年10月、皇妹和宮の将軍・徳川家茂への降嫁の決定しましたが、尊王攘夷派志士らはこれに反発、安藤らに...
安政の大獄により摘発された梅田雲浜の墓
大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、2人目の逮捕者となった梅田雲浜文化12年(1815年)、小浜藩藩士・矢部義比の次男として誕生。雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという。はじめ藩校・順造館、天保元年(1830年)には藩の儒学者・山口菅山から山崎闇斎学を学んだ。その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、大津に湖南塾を開いた。天保14年(1843年)には京都へ上京して藩の塾である望楠軒の講師となる。と...
水戸の旅(19)妙雲寺の井伊直弼の「井伊掃部守直弼台霊塔」
水戸の妙雲寺は、慶長元年(1596)、法雲院日道聖人が開山したのが始まりと伝えられ、延宝6年(1678)に現在地に移されました。天保14年(1843)、徳川斉昭が大砲鋳造のため、各寺院に梵鐘の供出を命じたところ、妙雲寺はこれに応じなかったため、一時廃寺になりましたが、その後家老の武田耕雲斎に与えられ後、再興されました。桜田門外の変を起こした水戸浪士の一人である広木松之介が、井伊直弼の首級を水戸へ持ち帰ったという伝承が...
彦根の天寧寺 井伊直弼の供養塔
彦根駅の南に位置する天寧寺。彦根藩11代・井伊直中は、藩下屋敷の腰元・若竹が、不義の子を宿したとして、若竹に死を命じたのですが、後日、その父親が直中の長子・直清と判明しました。直中は、自分の過失を認め、母子の菩提を弔うために、1828年天寧寺を建立し、京都の名工・駒井朝運に木造五百羅漢像を彫らせました。 もともとは井伊直政の実母を祀る彦根城下の崇徳寺を移築したものといわれています。直弼好みの借景の石州流...
豪徳寺の井伊直弼の墓
豪徳寺は、世田谷区豪徳寺にある曹洞宗の寺院で、招き猫発祥の地とされています。文明12年(1480年)、世田谷城主・吉良政忠が伯母・弘徳院のために建立した「弘徳院」が前身とされています。当初は臨済宗に属していましたが、天正12年(1584年)曹洞宗に転じました。寛永10年(1633年)彦根藩主・井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備しました。寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」によるものです。仏殿本...
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