Category [後白河天皇 ] 記事一覧
法住寺合戦の舞台・法住寺
水島合戦に敗れた木曽義仲は、寿永2年(1183)11月19日、後白河院の御所・法住寺を襲撃、後白河院、後鳥羽天皇を幽閉し、政権を掌握しました。法住寺は、平安中期に藤原為光によって建てられ。院政期には後白河法皇の御所・法住寺殿がありましたが、法住寺合戦で木曾義仲によって焼き討ちされました。その際、義仲が放った矢は天台座主に当たり、法皇は九死に一生を得ました。このことから本尊である不動明王像は「身代わり不動尊像...
瀬戸内紀行(23)後白河院の勅願寺・尾道の浄土寺
616年、聖徳太子の創建と伝えられています。本尊は十一面観音で、中国三十三観音霊場第九番札所1186年に後白河院の勅願寺となります。足利尊氏が九州平定や湊川の戦いの際、戦勝祈願をした寺としても有名です。 本堂、多宝塔は国宝、山門、阿弥陀堂は国重文に指定されています。本堂多宝塔阿弥陀堂奥庭には伏見城から移築したといわれる茶室「露滴庵」があります。山門からのぞく景色F2ブログランキングに参加しています。クリック...
播州清水寺(2)後白河法皇創建の常行堂跡
根本中堂推古天皇勅願所。推古35年(627年)に創建されました。本堂にあたる根本中堂の本尊十一面観音像は秘仏となっています。大正6年再建されました。地蔵堂この地にあった常行堂は、後白河法皇の創建と伝えられています。現在の建物は、昭和57年に再建されたものです。F2ブログランキングに参加しています。クリックよろしくお願い致します。...
熊野詣
平安時代後期に熊野三山をセットで巡る熊野詣が流行し、仲でも後白河上皇においては34回も参拝し、清盛は安濃津から海路で熊野を訪れたといいます。那智へ母と旅したのは今から5年前のこと。那智大社へタクシーで向かう途中、大門坂の入り口で降ろしてもらい、タクシーに母を残して、一人で少しだけ熊野古道を歩いてみました。大阪屋旅館跡夫婦杉多富気王子熊野九十九王子の最終王子です。杉の大木に囲まれた大門坂の石畳を少し歩...
平治の乱の舞台となった三条東殿
さて、ドラマはついに平治の乱へと進行していきます。三条西殿跡から約500m離れた京都市中京区姉小路烏丸東入ル南側(新風館前)に三条東殿遺址碑があります。ここが平治の乱の舞台となったところです。三条東殿は、白河法皇が造営した後、後白河上皇が御所としていました。信頼と義朝は、後白河と上西門院を二条天皇が居る内裏内の一本御書所に幽閉。平治元年(1159年)12月9日の夜、源義朝と藤原信頼の軍勢が三条東殿を襲撃。邸内...
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