Category [平重盛 ] 記事一覧
瀬戸内紀行(19)重盛の持念佛が祀られた西方寺
広島の竹原は、平安時代、京都下鴨神社の荘園として栄えた歴史から「安芸の小京都」と呼ばれています。竹原駅から歩くこと15分レトロな街並みが現れます。この通りを数分ほど歩くと西方寺に向かう長い階段があります。境内にある守護堂には、唐の育王山から迎えられた平重盛の持念佛である木造十一面観音立像がまつられています。西方寺は小早川隆景が京都の清水寺の舞台を模して建てたといわれています。普明閣は、正式には西方寺...
瀬戸内紀行(11)大願寺・重盛お手植えの松
大願寺開基は不明で、寺伝によれば平安時代初期に空海によって開かれたとも、また鎌倉時代の建仁年間(1201~1203年)に僧了海により再興されたと伝えられています。大願寺は、東側の塔の岡から西側の多宝塔・経の尾付近までが境内地で厳島伽藍と呼ばれ多くの堂塔がありました。現在の本堂は昔の僧坊で、大経堂である千畳閣が本堂になる予定でした。昔、参拝者は、大鳥居をくぐり、大願寺近くの砂浜に上陸した後、大願寺の裏にあっ...
重盛が造営した三嶋神社
正林寺へ向かう坂の途中にある三嶋神社。元々は大きな神社だったようですが、地域開発のために境内を手放さなければならなくなったということで、今はマンションの裏側に小さな祠と案内板がひっそりと残っています。案内板によると、後白河天皇の中宮・建春門院が皇子のないのを憂い、摂津の三嶋神に祈願したところ霊夢を感じ、後の高倉天皇をお生みになりました。後白河天皇は深く三嶋神を崇敬され、時この辺りの邸宅を構えていた...
浄教寺
「平家物語」巻三「灯籠」には、東山の麓に平重盛が「四十八間の精舎(灯籠堂)」を建てたことが書かれています。四条河原町にある浄教寺は、承安年間(1171~75)平重盛が東山小松谷の邸内に築いた燈籠堂が前身で、四十八間の精舎を建て、各柱間毎に一体ずつ計48体の阿弥陀仏を安置し、48個の燈籠を掲げ、燈籠堂と称されたのが始まりとされています。荒廃していた堂を立誉上人が東洞院高辻(当時の五条)に移し、浄教寺を開山(144...
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