Category [徳川家康(どうする家康) ] 記事一覧
武田信玄死後~大賀弥四郎事件
武田軍の突然の撤退は、徳川家康に武田信玄死去の疑念を抱かせ、その生死を確認するため、武田領である駿河国の岡部に侵攻・放火し、三河国では長篠城を攻めるなどしたところ、武田軍の抵抗がほとんどなかったことから信玄の死を確信。家康は、武田氏に与していた奥三河の山家三方衆(作手城の奥平氏、長篠城の菅沼氏、田峰城の菅沼氏)の一角である奥平貞能・貞昌親子を調略。浜松秋葉神社境内の山家三方衆屋敷跡奪回した長篠城に...
三方ヶ原合戦の戦死者を祀る元亀霊神社と本乗寺(精鎮塚の碑)
浜松市中区住吉の元亀霊神社は、明治の敬神崇祖の念の強い篤志家であった住吉の故岡野丑太郎氏は、自宅の近くにある小塚に、元亀三年の三方ヶ原の戦いで散華した多くの将兵が、眠っていることを知り、自分の土地を提供して住吉町の鎮護として、昭和5年に元亀霊神を建てたそうです。この地域には、数多くの小塚があったといい、大正時代の開拓事業により失われていきましたが、その過程で、小塚から小札が掘り出されたことから、三...
三方ヶ原の合戦の武将の眠る宗源院と平手汎秀の碑
浜松市中区広沢の宗源院は、山号を宝蔵山(ほうぞうさん)といい、西来院と同様に曹洞宗普済寺十三派の在天派に属し、華蔵義曇(けぞうぎどん)の法弟在天弘雲和尚が応永23年(1416年)に開創しました。ご本尊は、虚空蔵菩薩・釈迦牟尼佛・普賢菩薩です。室町時代後期には、今川氏の庇護をうけ、今川義元自身が開基としての役割を果たし、堂塔伽藍の再建を行っています。そうした関係を裏付ける史料として、当寺には今川義元...
家康を救った常楽寺の阿弥陀如来
浜松市中区中沢町に位置する常楽寺。天平六年(734年)の開山で、高野山真言宗の古刹です。本尊は阿弥陀如来。 本堂往時は七堂伽藍が建ち並び一世を風靡したといいますが、戦火で建物、記録が消失し、詳細は不明。 十三佛堂こちらには、三方ヶ原の合戦において、徳川家康と阿弥陀如来像についての興味深い話が伝わっています。 中澤山 常楽寺当山は、遠州信貴山別院である。往時は七堂伽藍が建ち並び一世を風靡したという。惜しむ...
家康ゆかりの小豆餅と銭取
浜松には、徳川家康と武田信玄との三方原合戦ゆかりのお菓子があります。イラストが面白いでしょう?御菓子司「あおい」の小豆餅と銭取です。「あおい」の小豆餅と銭取の由来によると「三方原合戦の折り、空腹に耐えかねた家康は道端の茶店に飛び込み、老婆が売っていた小豆餅をほおばりました。その時、後方に敵兵の気配を感じ、家康は銭も払わず逃げ出しました。何も知らない老婆は、「お侍さ~ん。銭を下され~銭を!」と二キロ...
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