Category [どうする家康 ] 記事一覧
長篠・設楽原の戦い(3)戦国版「走れメロス」鳥居強右衛門磔の場と墓
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)は、三河の徳川家康方の奥平貞昌(後の奥平信昌)の家臣で、貞昌が長篠城に入ったのに従い、天正3(1575)年2月長篠城に入りました。同年5月、長篠城は武田勝頼の大軍に囲まれ、籠城することになり、徳川家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請することになりました。その命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門でした。14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。川を潜ることで武田軍の警戒...
長篠・設楽原の戦い(2)長篠城址史跡保存館
では、「長篠城址史跡保存館」の中に入ってみましょう。ここでも松潤家康公がお出迎え!長篠城址史跡保存館は、「長篠城」の城跡にあり、「長篠の戦い」に関する資料を保存・展示しています。信玄遺言状(馬場信房末裔所蔵写し)1573年4月、武田信玄は、三河野田城を包囲中の陣中で病床に伏し、いったん甲府へ帰陣する途中の信濃伊那谷の駒場で53歳をもって病死した。甲陽軍鑑』によれば、信玄は遺言で「自身の死を3年の間は秘匿し...
長篠・設楽原の戦い(1)長篠城址
今年の3月の長篠・設楽原の戦いの史跡巡りをして来ました。長篠城駅を降りて、早速見つけたのが、この武田勝頼ゆかりの「さかさ桑」この看板の裏側にあります。さかさ桑長篠の戦いで大敗し、敗走する武田勝頼らはこの部落の農家で食事をとった際、桑の枝を折って、箸にして使い、使った桑の枝を、その前の畑に刺して、再び北へ落ち延びて行きました。その後勝頼らが差した桑の枝は逆さに芽を出して成長したといいます。これは勝頼...
井伊谷の龍潭寺(2)小堀遠州作の名勝庭園
仁王門本堂の真南、寺全体の正面に位置している仁王門は、昭和62年(1987)清山和尚代に建立されました。さて、龍潭寺の本堂に入ってみましょう。庫裡 丈六の釈迦牟尼仏 丈六の釈迦牟尼仏 この仏さまは遠州地方第一の大仏さま、丈六仏です。丈六とは一丈六尺(5米)の寸法をいいますが、お座りですから三米ほどの高さです。 静かに己の心を深く見つめておられる、座禅のお姿の仏さまです。 この仏さまのお体には黒い...
井伊谷の龍潭寺(1)井伊直政出世の地
後醍醐天皇の皇子・宗良親王の菩提寺である龍潭寺は、古くは地蔵寺といい、天平5年(733)に行基によって開創されたと伝わっています。井伊家は藤原鎌足の後裔とされ、藤原共資公(元祖共保公の父)の時、遠江国守として遠州村櫛に下り、共保公より井伊谷の地に移り、約五百年間にわたり、井伊谷の庄を治めました。保元の乱では源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では御醍醐天皇皇子・宗良親王を迎え北朝と戦いました...
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