Category [平重衡 ] 記事一覧
瀬戸内紀行(25)源平水島合戦の舞台・源平大橋と源平水島古戦場跡碑
源平大橋が次第に近くに見えてきました。現在、乙島と柏島を挟んでいた海峡は玉島港に、玉島大橋は水玉ブリッジラインの一部として交通流が多い橋となっています。いよいよ橋の上を歩いて、源氏軍の乙島から平家軍の柏島へ橋の北側には玉島漁港が橋の南側水島の戦いは、寿永2年閏10月1日、備中国水島(現在の倉敷市玉島)において木曽義仲軍(足利義清・海野幸広)と平家軍(平重衡、通盛、教経)との間で行われました。写真左側(...
平重衡の南都焼き討ち
1180年12月、清盛は五男の平重衡に南都攻略を命じました。そこには、南都が反平家勢力の拠点であったこと、奈良の僧兵が以仁王の謀反に手を貸していたという背景がありました。夜戦のため、民家に火を放ったところ、風に煽られて火が興福寺に燃え移り、さらに東大寺まで広がり、庶民が逃げこんだ大仏殿までもが炎に包まれてしまいました。興福寺東大寺大仏殿南都焼き討ち後、1181年、清盛は亡くなり、平家は都落ちをします。1184年...
源平の水島合戦の日に金環日食
寿永2年(1183年)11月17日、備中国水島で、足利義清・海野幸広率いる木曽義仲軍と平重衡・通盛軍との源平合戦がありました。倶利伽羅峠・篠原合戦で勝利した源義仲は入京し、後白河に平家追討の院宣を受け、平家の拠点、屋島へ進軍していましたが、四国へ渡海する前に水島付近で平氏軍と対峙しました。「源平盛衰記」によると、「天俄かに曇りて日の光も見えず、闇の夜の如くになりたれば、源氏の軍兵共、日蝕とは知らず、いとど...
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