大河ドラマに恋して

NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」「八重の桜」「平清盛」「江」の史跡巡りと歴旅紀行

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大阪夏の陣(1)後藤又兵衛と道明寺の戦い

大阪冬の陣で、いったんは講和が成立したものの、徳川家康はさらなる要求を突きつけていました。大阪城内にいる浪人衆の解散か秀頼が大阪城を出て、他の城に移るか。
これを豊臣方が拒否すると、講和成立からまだ半年も経たない1615年(元和元)年、家康は再び大阪城を攻めてきました。

以下戦いの詳細です。

豊臣方は、大坂城が大坂冬の陣ののち堀をすべて埋められてしまったため、夏の陣では城を出て戦わざるをえない状況になっていた。幕府軍は河内方面、大和方面および紀伊方面より大坂城に迫った。大和方面軍は水野勝成を先鋒大将とし、総大将松平忠輝、後見役伊達政宗など総勢34,300の兵で構成されていた。
4月30日、大坂城内では、大和口から来る幕府軍に対し、河内平野に侵入してくるところを隘路で待ち受け、先頭部隊を叩くことに決定した。
5月1日、豊臣軍では、後藤基次らの前隊6,400人が、その後毛利勝永、真田信繁ら後隊12,000人が大坂城を出発した。
5月5日、河内国平野で宿営した後藤、毛利、真田らは、同日夜半に出発し、翌払暁に道明寺村付近に集結、国分村の狭隘な地で幕府軍を迎え撃つことを取り決めた。

道明寺の戦い

午前
5月6日午前0時、後藤基次指揮の兵2,800は平野を出発し、藤井寺を経て夜明け前に道明寺に到着した。しかし、他に誰もまだ(後隊はおろか前隊さえも)到着していない。そして、後藤は幕府軍が既に国分村に展開していることを知る。
作戦が既に破綻してしまっていること認めた後藤は、石川を渡り小松山に登り陣を構えた。幕府軍は小松山に敵が布陣していることを知り、それを包囲することにした。
午前4時、後藤は松倉重政、奥田忠次勢に対し攻撃を仕掛けた。奥田は戦死、松倉勢も崩れかかったが、水野勝成、堀直寄が来援し、かろうじて助かった。
小松山を包囲した幕府軍は、伊達政宗、松平忠明らが激しい銃撃を加え、小松山にとりつこうとした。後藤勢は、次々に新手を繰り出す幕府軍を数度にわたり撃退したが、それにも限界があった。後藤は負傷者らを後方に下げ、小松山を下り、幕府軍に最後の突撃を敢行した。敵数隊を撃退するも丹羽氏信勢に側面を衝かれ立ち往生し、さらに伊達勢の銃撃により後藤が被弾した。
正午頃、約8時間もの激闘の末、後藤基次は戦死、彼の部隊は壊滅した。(Wikipediaより)

大阪の道明寺から玉手山丘陵に向かうと、その中心部に柏原市立玉手山公園があります。

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元は玉手山遊園地でしたが、新たに公園として整備されました。
この玉手山公園が、大坂夏の陣の激戦が繰り広げられた古戦場です。

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公園内の歴史の丘には、大阪夏の陣両軍戦死者の供養塔、後藤又兵衛碑後藤又兵衛しだれ桜、吉村武右衛門の碑などがあります。

後藤又兵衛はこの付近で繰り広げられた道明寺・小松山の戦いで徳川方の奥田忠次らを討ち取り奮戦しましたが、重傷を負い、家臣の吉村武右衛門の介錯により切腹しました。

大阪夏の陣両軍戦死者供養塔
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後藤又兵衛基次之碑
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後藤又兵衛しだれ桜
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「後藤又兵衛基次は、一五六〇年四月十日兵庫県加西市で、後藤基国の次男として生まれた。槍の名人として、黒田孝高とその子長政に仕え、長政の九州博多へ着任に伴い一万六千石の大隈城主となった。その後、時代の変化につれ、自ら城を捨てて浪人となったが、一六一四年大坂冬の陣には、亡き秀吉の恩義に感じ、劣勢の秀頼に応援すべく豊臣方へ加勢し、木村重成とともに河内付近で徳川方と奮戦し、恐れられた。
一時、和睦となったが一六一五年再び大坂夏の陣が始まり、堀を埋められた大坂方は、徳川軍の大軍を河内の峠で迎え撃つべく、五月六日未明、又兵衛は自ら先陣として約三千の手勢を連れて、この山まで来たが既に徳川方の先陣二万余の軍勢は、国分へ到着していたので、大坂方の二番手薄田隼人等の軍を待てずに、戦いの火ぶたは切られた。又兵衛の軍は奮戦したものの、多勢に無勢、遂に又兵衛は敵弾に当たり、自決し側近の吉村武右衛門が介錯してその首は、この地の西北の片山・深田へ埋めさせた。翌七日大坂城は落城した。」(案内板より)

黒田氏の家臣として仕えましたが、黒田長政とは非常に折り合いが悪く、その確執から如水の死後、黒田家を出奔。この時、長政は基次に対して奉公構という措置を取ったため、細川忠興・福島正則・前田利長・池田輝政・結城秀康などから召し出しがかかったにも関わらず、いつも長政の横やりで仕官を邪魔され、大坂で長い浪人生活を余儀なくされ、京に着いた頃には六城川原のむしろ囲いの小屋で、乞食同然の生活をしていたといいます。それがこの戦により、再び又兵衛を武士として甦らせたのでした。

吉村武右衛門之碑
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午後(誉田の戦い)

このころになって前隊の残り、薄田兼相、明石全登、山川賢信らが道明寺に到着し、幕府軍を迎え撃った。薄田は自ら太刀を振るい奮戦したが戦死、残余の部隊は誉田(こんだ)村方面に後退した。
そこへ後隊の毛利勝永が道明寺に到着、真田信繁らは後退してきた兵を収容し誉田村付近に着陣した。伊達勢の片倉重長は、真田勢を見るとこれに攻め寄せた。
片倉は部隊を前後2隊に分け、左右に鉄砲隊を展開させて攻撃した。これに対し真田勢も鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せ片倉勢の接近を待って迎え撃った。片倉自身が馬上4騎を切り伏せたり、渡辺糺は負傷するなど激戦が展開されたが、真田勢が伊達勢を道明寺辺りまで押し込んだ後、自身は藤井寺まで後退し、毛利勢と合流した。幕府軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し、にらみ合いの状態になった。午後2時半頃、大坂城から八尾・若江の敗報と退却の命令が豊臣軍に伝えられた。豊臣軍は真田を殿軍とし、午後4時過ぎから順次天王寺方面へ撤退を開始した。水野勝成は追撃を主張したが、諸将は兵の疲労を理由に応じなかった。(Wikipediaより)

誉田八幡宮は、大阪府羽曳野市にある神社で、応神天皇陵のすぐ南に鎮座し、応神天皇を祀っています。

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戦国時代、信長が畠山氏の居城を攻撃した時、誉田八幡宮も焼失し、本殿は1606年に豊臣秀頼に再建されたものとされています。しかし、大阪夏の陣で、豊臣が滅亡したため、完成させることができず、現在の本殿は家光の時に完成されました。

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誉田林古戦場の碑

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誉田林古戦場址

誉田八幡宮の付近は、南北朝から室町戦国の各時代を経て、江戸初期の元和年間にかけて戦略上の要地であったため再三古戦場の舞台となったところである。
すなわち、南北朝初期の正平年間には、北朝方の細川兄弟の軍と楠木正行の間で合戦が行われ、室町中期の享徳年間には畠山政長と義就の間で再三にわたり誉田合戦が行われた。すこし降って、永正元年(1504)には、前記の孫に当る畠山稙長(タネナガ)と義英との間で合戦のあとで和議となり本だ八幡宮『社前の盟約』が結ばれたのもこの境内であった。大阪夏の陣の折には、大阪方の武将薄田隼人正もこの境内に大陣を置きこの地より出撃して道明寺近辺で、討死をとげたのである。(案内板より)

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Comment

NoTitle 

しだれ桜の咲いてるときにみたいですね!
  • posted by シネマ大好き娘 
  • URL 
  • 2014.12/18 03:16分 
  • [Edit]

大阪夏の陣! 

大阪城は外堀など埋められて丸裸!
後藤又兵衛など西軍の武将たちは皆死を覚悟して出陣したのですね!
德川家としても豊臣家を抹殺せねばならない状況下ですから、全力投球で動員!
一方九州では九州の西軍派と黒田家のなどの東軍派の戦いが全勢力でもって繰り広げられたところですね。
  • posted by willy_tsuguo_shikata 
  • URL 
  • 2014.12/18 06:22分 
  • [Edit]

NoTitle 

今年の大河と再来年の大河は同じ時代。
そして来年の大河と去年の大河がまた同じ時代なんですね。
この二つの時代は、やはり人気なんですね。
☆P
  • posted by YUMI 
  • URL 
  • 2014.12/18 08:32分 
  • [Edit]

シネマ大好き娘さんへ 

この時は、私たち以外誰もしませんでしたが、しだれ桜の季節にはお花見客もいるのかな?
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2014.12/18 11:25分 
  • [Edit]

四方さんへ 

この戦いも最終回ではぐっと凝縮されてしまうのでしょうね。
九州まで行きながら、「九州の関ヶ原」の舞台には行けなかったのが残念です。
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2014.12/18 11:29分 
  • [Edit]

YUMIさんへ 

>今年の大河と再来年の大河は同じ時代。
そして来年の大河と去年の大河がまた同じ時代なんですね。

あら!言われてみればそうですね。

YUMIさん、よく気が付きましたね(^_-)
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2014.12/18 11:31分 
  • [Edit]

NoTitle 

道明寺、誉田…

私が住む場所から
すぐ近くなんですよ(*^_^*)

玉手山はその昔
小さな遊園地があったんですよねぇ。

応援ぽち
  • posted by よっちん 
  • URL 
  • 2014.12/18 21:15分 
  • [Edit]

よっちんさんへ 

あら!そうなのですか!

それでは私は近くまで行っていたわけですね。

玉手山公園は今も遊園地の名残がありますね。
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2014.12/18 22:18分 
  • [Edit]

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Author:しずか
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