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2015.01/31 [Sat]
京都御苑に残る史跡(10)西園寺邸跡
下立売御門から京都御苑に入ると、春には真っ白なユキヤナギを見ることができるます。



そして、梅林の近くに西園寺邸跡があります。


西園寺邸跡
西園寺家は琵琶の宗家でもあり、鎌倉時代の公卿西園寺公経が今の金閣寺の地に別荘北山堂を造った際、妙音天あるいは妙音弁才天といわれる音楽神を祀る妙音堂も建てられたといわれています。この地へは1769(明和6)年に移されたといわれ、明治になり西園寺家が東京へ移った後は、1878(明治11)年、以前の神仏混交の作法を改め、地名の白雲村に因み、白雲神社となりました。旧邸内は、西園寺公望が、私塾「立命館」を創設した地でもあります。(駒札より)


西園寺家
藤原公実の四男通季を祖とする。家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・有職故実・雅楽(琵琶)。一条家の家礼。江戸時代の家禄は597石。
通季の曾孫公経は源頼朝の姪全子を妻とし、加えて摂家将軍藤原頼経の祖父に当たることから、鎌倉幕府との関係は緊密であった。そのため、承久の乱に際しては幕府に内応する恐れありとして朝廷によって幽閉されるも、却って乱後に幕府の信任を受けて朝廷の実権を掌握し、太政大臣にまで昇進して家格を高めることに成功した。公経より公宗までは朝幕間の交渉役である関東申次を務めた他、娘を次々と入内・立后させ、天皇の外戚として一時は摂関家をも凌ぐ権勢を振るった。実兼は大覚寺統に接近し、亀山法皇や後醍醐天皇に娘を入れたが、子の公衡以降は反幕府的態度を取る大覚寺統からは離反し、次第に持明院統との関係を深めている。
鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武政権が始まると、後ろ盾を失った西園寺家は退勢に陥る。公宗は北条氏残党である北条泰家(時興)を匿い、後醍醐を暗殺して持明院統の後伏見上皇を擁立する謀叛を計画したが、弟公重の密告によって発覚したために処刑され、家は公重が継承した。やがて公重が南朝へ参候したため、公宗の遺児実俊が右大臣に昇って家名を再興したが、往時の権勢は失われた。またこの頃、一族の公俊が家領の伊予国宇和郡に下向して土着し、伊予西園寺氏の祖となった。近世初期の実晴は細川忠隆の長女を御台所に迎えたが、その遺産は家政の基盤となる。以後は当主の夭逝が相次ぎ、他家からの養子が続いた。
幕末に同じ閑院流の徳大寺家から養子に入った公望は、明治維新を経て政治家として活躍した。明治17年(1884年)に侯爵を授けられ、内閣総理大臣を二度経験した後、大正9年(1920年)勲功により公爵に陞爵し、元老として大正・昭和の政界に重きをなした。(Wikipediaより)
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そして、梅林の近くに西園寺邸跡があります。


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西園寺家は琵琶の宗家でもあり、鎌倉時代の公卿西園寺公経が今の金閣寺の地に別荘北山堂を造った際、妙音天あるいは妙音弁才天といわれる音楽神を祀る妙音堂も建てられたといわれています。この地へは1769(明和6)年に移されたといわれ、明治になり西園寺家が東京へ移った後は、1878(明治11)年、以前の神仏混交の作法を改め、地名の白雲村に因み、白雲神社となりました。旧邸内は、西園寺公望が、私塾「立命館」を創設した地でもあります。(駒札より)


西園寺家
藤原公実の四男通季を祖とする。家業は四箇の大事(節会・官奏・叙位・除目)・有職故実・雅楽(琵琶)。一条家の家礼。江戸時代の家禄は597石。
通季の曾孫公経は源頼朝の姪全子を妻とし、加えて摂家将軍藤原頼経の祖父に当たることから、鎌倉幕府との関係は緊密であった。そのため、承久の乱に際しては幕府に内応する恐れありとして朝廷によって幽閉されるも、却って乱後に幕府の信任を受けて朝廷の実権を掌握し、太政大臣にまで昇進して家格を高めることに成功した。公経より公宗までは朝幕間の交渉役である関東申次を務めた他、娘を次々と入内・立后させ、天皇の外戚として一時は摂関家をも凌ぐ権勢を振るった。実兼は大覚寺統に接近し、亀山法皇や後醍醐天皇に娘を入れたが、子の公衡以降は反幕府的態度を取る大覚寺統からは離反し、次第に持明院統との関係を深めている。
鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇による建武政権が始まると、後ろ盾を失った西園寺家は退勢に陥る。公宗は北条氏残党である北条泰家(時興)を匿い、後醍醐を暗殺して持明院統の後伏見上皇を擁立する謀叛を計画したが、弟公重の密告によって発覚したために処刑され、家は公重が継承した。やがて公重が南朝へ参候したため、公宗の遺児実俊が右大臣に昇って家名を再興したが、往時の権勢は失われた。またこの頃、一族の公俊が家領の伊予国宇和郡に下向して土着し、伊予西園寺氏の祖となった。近世初期の実晴は細川忠隆の長女を御台所に迎えたが、その遺産は家政の基盤となる。以後は当主の夭逝が相次ぎ、他家からの養子が続いた。
幕末に同じ閑院流の徳大寺家から養子に入った公望は、明治維新を経て政治家として活躍した。明治17年(1884年)に侯爵を授けられ、内閣総理大臣を二度経験した後、大正9年(1920年)勲功により公爵に陞爵し、元老として大正・昭和の政界に重きをなした。(Wikipediaより)
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