大河ドラマに恋して

NHK大河ドラマ「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」「八重の桜」「平清盛」「江」の史跡巡りと歴旅紀行

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久坂玄瑞に会いに来た坂本龍馬

安政6(1859年)、吉田松陰の江戸移送後、久坂玄瑞は松下村塾を復活させ、勉強会には元塾生を大勢参加したといいます。

師の悲惨な最期がきっかけとなり、玄瑞は、医者の道を諦め、松陰の志を受け継いでいくことを決心します。

入江九一に宛てた手紙には「先師の非命を悲しむ事、無益なり。先師の志を墜さぬよう肝要なり。」と前向きな気持ちを書いています。
玄瑞は、まるで松陰の「僕は忠義をするつもり、諸友は功業をなすつもり。」という言葉を自らが実践するかのごとく、尊皇攘夷運動へと駆られていくのでした。

万延元年(1860)、藩の仕事で萩を離れる者が増え、玄隋も江戸に行くことが増え、塾は自然消滅しますが、その後、玉木文之進が塾を再開させます。

安政7年(1860)3月、桜田門外の変で、大老・井伊直弼が暗殺され、幕府の権威が失墜。
老中・安藤信正は、安政の大獄を起こした井伊直弼の政策から、朝廷に接近しながら政策をとる公武合体運動へと方針を転換。その公武合体策の一つが、孝明天皇の妹・和宮の第14代将軍・徳川家茂へ輿入れさせることでした。
長州藩士・長井雅楽の航海遠略策を承認したのも公武合体の一環でした。

同年4月、萩から江戸へ向かった玄瑞は、小塚原回向院の松陰の墓の前で、師の志を継ぐことを誓い、水戸、薩摩などの志士たちと交流を持ち、土佐の武市半平太ら尊皇攘夷派と結束します。

文久元年(1861)公武合体を進めていた長井雅楽と対立。この弾劾運動が、後に藩論を転換させることになります。
萩へ帰国した玄瑞のもとへあの男が現れます。

玄瑞の日記「江月斎日乗」によると、1862年(文久2)1月14日、当時、土佐勤王党に加わっていた土州藩の坂本龍馬が、武市半平太(瑞山)の書簡を持って、玄瑞を訪ねて来萩し、9日間ほど滞在します。
このあたりにあった鈴木勘蔵の旅館に泊まり、たまたま、薩州藩の田上藤七も樺山三円の書簡を持って来萩していたので、薩長土の藩士が一堂に会することになりました。
後の薩長土連合を暗示する前兆になったことを記念して、昭和43年に建立された石碑「薩長土連合密議之處」が萩の松陰神社にあります。

IMG_0899 松陰神社

IMG_0899 松陰神社

揮毫は故岸信介元首相。

この石碑には、「田上藤七」という名が刻まれていますが、実際は、久坂の書き間違いで、田中頼庸(よりつね)であったか、または田中が変名を名乗ったのではないかという説があります。記事にそのことについて補足しました。
この田上藤七だが、幕末薩摩藩の史料には登場せず、いわば謎の人物である。近年、山口県防府市在住の研究者・山本栄一郎氏が、久坂が田上藤七の名前を日記に誤記し、本当は田中藤八だったと指摘している。その根拠は長州藩士・野村靖の回想録「追懐録」である(中国新聞2010年9月20日付)。
 「追懐録」にはたしかに「本年正月薩州の人田中藤八(今頼庸よりつねと称す)萩に来りて同藩樺山三円より久阪(久坂)、周布政之助に与ふる書を示し且つ告ぐる」と書かれている。
 田上藤七は実在しないのではないかという山本氏の指摘は卓見である。ただ、田中藤八が変名を名乗った可能性があるのではないか。
 「追懐録」にあるように、田中藤八は明治になって田中頼庸と名乗っている。強硬な廃仏論を唱となえ、伊勢神宮大宮司になるなど、神道界の実力者となっている。
 田中は父が四郎左衛門といい、母は樺山氏である(三円と縁者か)。15歳のときに奄美に流罪となっており、嘉永朋党事件(高崎崩れ)に連座したのかもしれない。西郷が流罪赦免後、変名の大島を名乗ったように、田中も字がよく似た田上藤七という変名を用いたのではないだろうか。(南新聞社の記事より)7
http://373news.com/_bunka/jikokushi/kiji.php?storyid=275

IMG_0900 松陰神社

龍馬は萩に滞在中、松下村塾生とワラ束を斬ったり、藩校・明倫館の武術道場・有備館で長州藩の少年相手に剣術の稽古をつけたりしたそうです。
しかし、なんとし三本勝負ですべて少年に敗れ、龍馬は「自分が弱いからだ」と言ったと伝えられています。

有備館
IMG_1110 有備館

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IMG_1109 有備館

IMG_1112 有備館

IMG_1113 有備館

IMG_1115 有備館

IMG_1116 有備館

IMG_1117 有備館

IMG_1118 有備館

玄瑞が武市に宛てた手紙には、「諸候たのむに足らず、公卿たのむに足らず、草莽志士糾合義挙のほかにはとても策これ無き事」草莽崛起論を龍馬に篤く語りかけたといいます。

この草莽崛起の思想は、吉田松陰の唱えた「草莽崛起論」が基になっていて、「尊藩(土佐藩)も弊藩(長州藩)も滅亡しても大義なれば苦しからず」という考えが、坂本龍馬の脱藩に影響したと言われています。
実際、龍馬は、2月末に土佐に戻り3月24日に脱藩しています。

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Comment

坂本龍馬萩に現る! 

武市瑞山の手紙を持って坂本龍馬は萩に現れ、薩長土連合密議をしたのですね!
坂本龍馬、長州は久坂玄瑞、は良く知っていましたが、薩摩藩の田上藤七のことは良く知りません!
  • posted by willly_tsuguo_shikata 
  • URL 
  • 2015.05/04 04:59分 
  • [Edit]

NoTitle 

現代も草莽の士を待ち望む時代でしょうか。
少なくとも教育の世界はそうのような…
☆P
  • posted by YUMI 
  • URL 
  • 2015.05/04 11:27分 
  • [Edit]

四方さんへ 

「薩長土連合密議之處」という石碑には、「田上藤七」という名が刻まれていますが、実際は、久坂の書き間違いで、田中頼庸(よりつね)であったか、または田中が変名を名乗ったのではないかという説があります。記事にそのことについて補足しました。
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2015.05/04 12:02分 
  • [Edit]

YUMIさんへ 

まったくです。

今の日本の教育の現場に、松陰の唱えるような「志」を持った人がどれくらいいるのでしょうね~
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2015.05/04 12:10分 
  • [Edit]

NoTitle 

「花燃ゆ」にどぶろっくが出るそうで
しかも一人は一橋慶喜の役だと聞いてビックリ。

ちゃんとした俳優さんをキャステイングしてほしいなぁ。

応援ぽち
  • posted by よっちん 
  • URL 
  • 2015.05/04 13:59分 
  • [Edit]

よっちんさんへ 

私もその情報、昨日知りました。

ちょっとびっくりです(^_^;)

慶喜は以前演じられた平さんみたいな役者さんが良いな~
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2015.05/04 21:47分 
  • [Edit]

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