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2015.09/01 [Tue]
講和会談が行われた宮島大願寺
宮島の大願寺は、明治の神仏分離令までは厳島神社の普請奉行として寺院の修理・造営を一手に担ってきました。

開基は不明で、寺伝によれば平安時代初期に空海によって開かれたとも、また鎌倉時代の建仁年間(1201~1203年)に僧了海により再興されたと伝えられています。

大願寺は、東側の塔の岡から西側の多宝塔・経の尾付近までが境内地で厳島伽藍と呼ばれ多くの堂塔がありました。
現在の本堂は昔の僧坊で、大経堂である千畳閣が本堂になる予定でした。
昔、参拝者は、大鳥居をくぐり、大願寺近くの砂浜に上陸した後、大願寺の裏にあった大風呂で身を清め、僧坊で休憩、着替えをして厳島神社に参拝しました。
厳島神社の出口が唐破風造りで、昔は入口であったことがうかがえます。
また境内の池の中には、弁財天の使いとされる厳島龍神が祀られ、護摩堂には不動明王安置されています。


本堂には、国の重要文化財である仏像が四体あり、その中の薬師如来坐像は、弘法大師の作と伝えられています。また、神仏分離令で千畳閣から移された、行基作と伝えられる釈迦如来坐像と阿難尊者像・迦葉尊者像、五重塔から移された釈迦如来座像・文殊菩薩・普賢菩薩の三尊像があります。
当寺の秘仏・厳島弁財天は弘法大師空海の作と伝えられ、日本三弁財天の一つです。
慶応2年(1866)9月1日、長州征伐(四境戦争)の際、幕府方の勝海舟と長州藩の広沢真臣、井上馨らが、大願寺本堂奥の書院で講和会談をしました。
これにより、停戦合意が成立し、大島口、芸州口、石州口では戦闘が終息しました。
また、境内には、伊藤博文お手植えと伝えられる9本松もあります。


ここも数々の歴史の舞台になってきたのですね。
(宮島観光協会サイト参照)
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開基は不明で、寺伝によれば平安時代初期に空海によって開かれたとも、また鎌倉時代の建仁年間(1201~1203年)に僧了海により再興されたと伝えられています。

大願寺は、東側の塔の岡から西側の多宝塔・経の尾付近までが境内地で厳島伽藍と呼ばれ多くの堂塔がありました。
現在の本堂は昔の僧坊で、大経堂である千畳閣が本堂になる予定でした。
昔、参拝者は、大鳥居をくぐり、大願寺近くの砂浜に上陸した後、大願寺の裏にあった大風呂で身を清め、僧坊で休憩、着替えをして厳島神社に参拝しました。
厳島神社の出口が唐破風造りで、昔は入口であったことがうかがえます。
また境内の池の中には、弁財天の使いとされる厳島龍神が祀られ、護摩堂には不動明王安置されています。


本堂には、国の重要文化財である仏像が四体あり、その中の薬師如来坐像は、弘法大師の作と伝えられています。また、神仏分離令で千畳閣から移された、行基作と伝えられる釈迦如来坐像と阿難尊者像・迦葉尊者像、五重塔から移された釈迦如来座像・文殊菩薩・普賢菩薩の三尊像があります。
当寺の秘仏・厳島弁財天は弘法大師空海の作と伝えられ、日本三弁財天の一つです。
慶応2年(1866)9月1日、長州征伐(四境戦争)の際、幕府方の勝海舟と長州藩の広沢真臣、井上馨らが、大願寺本堂奥の書院で講和会談をしました。
これにより、停戦合意が成立し、大島口、芸州口、石州口では戦闘が終息しました。
また、境内には、伊藤博文お手植えと伝えられる9本松もあります。


ここも数々の歴史の舞台になってきたのですね。
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伊藤博文お手植えの松!
この宮島では毛利元就の戦略・勝利が一番記憶に残っています!