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2015.11/10 [Tue]
周防明倫館兵学寮跡と靖国神社の大村益次郎の像
1815年(文化12)、長州藩士・上田鳳陽(ほうよう)は学問所として「山口講堂」を開設しました。
その後「山口明倫館」と名前を変え、兵学寮と文学寮に分けられ、文学寮には小学舎及び編集局、兵学寮には歩兵・騎馬・砲兵の三兵塾がありました。
一時は、大村益次郎が兵学寮の教授となり、洋式兵学の教育が行われました。
大村益次郎

その兵学寮のあったところに碑が残されています。


大村 益次郎
幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。
長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。(Wikipediaより)
東京・靖国神社の大村益次郎の銅像



この銅像、台座が高くて撮影が難しかったです(^_^;)
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その後「山口明倫館」と名前を変え、兵学寮と文学寮に分けられ、文学寮には小学舎及び編集局、兵学寮には歩兵・騎馬・砲兵の三兵塾がありました。
一時は、大村益次郎が兵学寮の教授となり、洋式兵学の教育が行われました。
大村益次郎

その兵学寮のあったところに碑が残されています。


大村 益次郎
幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。
長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。(Wikipediaより)
東京・靖国神社の大村益次郎の銅像



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