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2016.05/16 [Mon]
岡崎城(1)本多忠勝の像
岡崎城は、愛知県岡崎市康生町にあった城で、徳川家康の生地です。
別名「龍城」。
1452年(享徳元年)または1455年(康正元年)龍頭山の砦として三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が築城。
1531年(享禄4年)松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を整備して勢力を広げたが家臣の謀反により命を落とす(森山崩れ)。
1542年(天文11年)城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれる。
存城当時の東海地方の城では3番目に数えられる規模でしたが、1873年(明治6年)の廃城令によって廃城となりました。
現在は本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構を残すのみで、岡崎公園として整備され、天守などが復興され、市民の憩いの場になっています。




からくり時計


ここには、さまざまな家康の銅像があるのですよ。
威厳たっぷりの像


騎馬像

出生ベンチの像


家康の子供の頃の竹千代の像

そしてあの有名なしかみ像


家康の像以外にも、本多忠勝の像もあります。

伊勢・桑名藩主。三河生。通称は平八郎。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられています。
兜は、鹿角脇立黒漆塗兜。
徳川家康に仕え、三河一向一揆、姉川の戦、長篠の戦等で戦功をあげました。
忠勝は娘の稲姫(小松殿)を徳川家康または徳川秀忠の養女として真田信之に嫁がせました。
この婚姻については、対立抗争を続けていた徳川家康と真田昌幸が、豊臣秀吉の命により昌幸を家康の与力大名とすることで決着したことを機に、両家の関係を緊密にするためだったといわれています。
また、この婚姻自体が秀吉の意向によるものという説もあります。
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別名「龍城」。
1452年(享徳元年)または1455年(康正元年)龍頭山の砦として三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が築城。
1531年(享禄4年)松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を整備して勢力を広げたが家臣の謀反により命を落とす(森山崩れ)。
1542年(天文11年)城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれる。
存城当時の東海地方の城では3番目に数えられる規模でしたが、1873年(明治6年)の廃城令によって廃城となりました。
現在は本丸と周辺の持仏堂曲輪、隠居曲輪、風呂谷等の曲輪と石垣、堀などの遺構を残すのみで、岡崎公園として整備され、天守などが復興され、市民の憩いの場になっています。




からくり時計


ここには、さまざまな家康の銅像があるのですよ。
威厳たっぷりの像


騎馬像

出生ベンチの像


家康の子供の頃の竹千代の像

そしてあの有名なしかみ像


家康の像以外にも、本多忠勝の像もあります。

伊勢・桑名藩主。三河生。通称は平八郎。
徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられています。
兜は、鹿角脇立黒漆塗兜。
徳川家康に仕え、三河一向一揆、姉川の戦、長篠の戦等で戦功をあげました。
忠勝は娘の稲姫(小松殿)を徳川家康または徳川秀忠の養女として真田信之に嫁がせました。
この婚姻については、対立抗争を続けていた徳川家康と真田昌幸が、豊臣秀吉の命により昌幸を家康の与力大名とすることで決着したことを機に、両家の関係を緊密にするためだったといわれています。
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NoTitle
わかりませ~~~ん