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2016.09/26 [Mon]
真田昌幸の最期・長谷寺の昌幸の墓(上田)
関ヶ原の戦後処理において、徳川家康より真田昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下されましたが、東軍に属した長男の信幸(信之と改名)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居となりました。

昌幸は慶長5年(1600年)12月13日に上田城を発ち、高野山へ。
昌幸の正室・山之手殿は上田に残留し、次男の信繁とその妻子、さらに池田長門・原出羽・高梨内記・小山田治左衛門・田口久左衛門・窪田作之丞・関口角左衛門・関口忠右衛門・河野清右衛門・青木半左衛門・飯島市之丞・石井舎人・前島作左衛門・三井仁左衛門・大瀬儀八・青柳清庵ら16人が従いました。
上田城は徳川方に接収され、家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却されました。
高野山での昌幸の配所は、蓮華定院という真田家の菩提所でしたが、間もなく山麓の九度山に代わりました。信繁が妻を伴っていたため「女人禁制」の関係で代わったとも、冬の高野山の寒さに耐えかねて代わったともいわれています。
また、昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され(真田庵)、家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようです。
昌幸の生活費に関しては国許の信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長からの援助で賄っていましたが、生活費に困窮し、信之に援助金を催促するため10年余の間に20余通の書状を出しており、信之は、毎年数十両単位の援助を行っていました。
配流当初には信之、本多正信を通して赦免運動を展開。山之手殿も赦免を嘆願していたので、昌幸は国許に帰還する希望を持っていたようです。
しかし、10年余り続いた流人生活は昌幸を衰えさせ、晩年は病気がちだったといいます。
慶長16年(1611年)6月4日、九度山で病死しました。享年65
死後、遺体は九度山に付き従った河野清右衛門らによって火葬にされ、慶長17年(1612年)8月に分骨を上田に運んだといいます。
墓所は長野県松代の長国寺で、上田の真田家廟所である長谷寺に納骨された経緯が記されています。
上田の長谷寺の真田家廟所


左から、真田幸隆夫人恭雲院、真田幸隆、真田昌幸の墓
真田 幸隆(さなだ ゆきたか/こうりゅう)
信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。
幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている(柴辻俊六による)。「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では「一徳斎」の道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている。
出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが武田晴信に仕えて旧領を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。
恭雲院
海野棟綱や真田氏の譜代の家老であった河原隆正の妹で、海野氏分家の家柄だった真田幸綱に嫁ぎ、真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信尹、金井高勝を産んだ。幸綱には他に二人の娘(長坂昌国室、遠山右馬助室)がいるがこちらの生母は不明である。長男の信綱が天文6年(1537年)の生まれ(『信綱寺殿御事跡稿』)のため、幸隆と恭雲院の結婚は天文年間初期と推測される。
『系図纂要』によれば、武田家の譜代家老・飯富虎昌の娘が幸綱に嫁いだとする説があり、その後は側室となったと思われるが、永禄8年(1565年)10月15日に飯富虎昌が義信事件で失脚・処刑されて以降は正室に戻ったと思われる[1]。天正2年(1574年)5月19日には幸綱が死去する。また、『羽尾記』によれば、恭雲院の出自を羽尾幸全の娘(『羽尾記』)ともされるが、柴辻俊六はこの説の根拠は弱いとしている。
天正10年(1582年)3月の武田家滅亡後、上野国と信濃小県郡・佐久郡を支配していた織田家家臣・滝川一益の元に人質として出されたが、後に武田氏から離反して織田氏に従属し、信濃安曇郡・筑摩郡・木曽郡を与えられた木曽義昌へ引き渡された。同年9月に真田家が徳川家に従属したことに伴い、翌11年2月に徳川家康の人質となった。その後天正13年(1585年)ごろに解放され、真田家へもどったとされる。
真田 昌幸
甲斐の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。
軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像として現在でもよく知られている。 (Wikipediaより)



また九度山の真田庵にも法塔が造立され、昌幸墓所とされています。
ここは、来月のツアーで行く予定でいます。
最後に・・・
真田昌幸役の草刈正雄さん、見事な昌幸をお疲れ様でした!



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昌幸は慶長5年(1600年)12月13日に上田城を発ち、高野山へ。
昌幸の正室・山之手殿は上田に残留し、次男の信繁とその妻子、さらに池田長門・原出羽・高梨内記・小山田治左衛門・田口久左衛門・窪田作之丞・関口角左衛門・関口忠右衛門・河野清右衛門・青木半左衛門・飯島市之丞・石井舎人・前島作左衛門・三井仁左衛門・大瀬儀八・青柳清庵ら16人が従いました。
上田城は徳川方に接収され、家康の命令を受けた諏訪頼水らによって破却されました。
高野山での昌幸の配所は、蓮華定院という真田家の菩提所でしたが、間もなく山麓の九度山に代わりました。信繁が妻を伴っていたため「女人禁制」の関係で代わったとも、冬の高野山の寒さに耐えかねて代わったともいわれています。
また、昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され(真田庵)、家臣の屋敷も近くに造られるなど、普通の流人よりはかなり厚遇されていたようです。
昌幸の生活費に関しては国許の信之、関係の深かった蓮華定院、和歌山藩主の浅野幸長からの援助で賄っていましたが、生活費に困窮し、信之に援助金を催促するため10年余の間に20余通の書状を出しており、信之は、毎年数十両単位の援助を行っていました。
配流当初には信之、本多正信を通して赦免運動を展開。山之手殿も赦免を嘆願していたので、昌幸は国許に帰還する希望を持っていたようです。
しかし、10年余り続いた流人生活は昌幸を衰えさせ、晩年は病気がちだったといいます。
慶長16年(1611年)6月4日、九度山で病死しました。享年65
死後、遺体は九度山に付き従った河野清右衛門らによって火葬にされ、慶長17年(1612年)8月に分骨を上田に運んだといいます。
墓所は長野県松代の長国寺で、上田の真田家廟所である長谷寺に納骨された経緯が記されています。
上田の長谷寺の真田家廟所


左から、真田幸隆夫人恭雲院、真田幸隆、真田昌幸の墓
真田 幸隆(さなだ ゆきたか/こうりゅう)
信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣。息子三人と共に、武田二十四将にも数えられる。
幼名は次郎三郎、通称は源太左衛門、剃髪して一徳斎と号す。諸系図では幸隆と記されるが、確実な同時代史料においては幸綱と記され、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、永禄5年頃までは幸綱と名乗り、幸隆は晩年に改めたものであると考えられている(柴辻俊六による)。「幸隆」の名に関して、『高野山蓮華定院過去帳』では「一徳斎」の道号に伴い「一徳斎幸隆」と記されており、道号は原則として音読みされることから、「幸隆」の読みは「こうりゅう」であるとも考えられている。
出身は信濃小県郡の名族海野氏で、海野平合戦でいったん所領を失うが武田晴信に仕えて旧領を回復。以後も武田家の信濃先方衆として活躍し、後の真田氏の礎を築いた。
恭雲院
海野棟綱や真田氏の譜代の家老であった河原隆正の妹で、海野氏分家の家柄だった真田幸綱に嫁ぎ、真田信綱、真田昌輝、真田昌幸、真田信尹、金井高勝を産んだ。幸綱には他に二人の娘(長坂昌国室、遠山右馬助室)がいるがこちらの生母は不明である。長男の信綱が天文6年(1537年)の生まれ(『信綱寺殿御事跡稿』)のため、幸隆と恭雲院の結婚は天文年間初期と推測される。
『系図纂要』によれば、武田家の譜代家老・飯富虎昌の娘が幸綱に嫁いだとする説があり、その後は側室となったと思われるが、永禄8年(1565年)10月15日に飯富虎昌が義信事件で失脚・処刑されて以降は正室に戻ったと思われる[1]。天正2年(1574年)5月19日には幸綱が死去する。また、『羽尾記』によれば、恭雲院の出自を羽尾幸全の娘(『羽尾記』)ともされるが、柴辻俊六はこの説の根拠は弱いとしている。
天正10年(1582年)3月の武田家滅亡後、上野国と信濃小県郡・佐久郡を支配していた織田家家臣・滝川一益の元に人質として出されたが、後に武田氏から離反して織田氏に従属し、信濃安曇郡・筑摩郡・木曽郡を与えられた木曽義昌へ引き渡された。同年9月に真田家が徳川家に従属したことに伴い、翌11年2月に徳川家康の人質となった。その後天正13年(1585年)ごろに解放され、真田家へもどったとされる。
真田 昌幸
甲斐の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。
軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像として現在でもよく知られている。 (Wikipediaより)



また九度山の真田庵にも法塔が造立され、昌幸墓所とされています。
ここは、来月のツアーで行く予定でいます。
最後に・・・
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