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2017.01/17 [Tue]
井殿の塚(いどののつか)
井伊谷にある井殿の塚は、天文13年(1544)、家老の小野和泉守道高のざん言により謀反の疑いをかけられ、駿河で今川義元に討ち取られた井伊直満と弟・井伊直義の墓です。

井伊直虎と従兄弟で幼馴染みの亀之丞との婚約を阻止したかった小野和泉守は、嫡男の政次を直虎と結婚させ、井伊家を乗っ取り、自らの権勢を振るおうと策略。
当時、井伊領の国境を侵略する者に対する防御のために、武器と兵員を集めていました。これを直満と直義兄弟が、今川氏の謀反を企んでいるとの嘘の密告。駿府に呼び出された直満兄弟は、今川館において惨殺されていましました。
事件の後、末弟の直元が、居館の一画に供養のための塚を築き、一本の松を植えたと言い伝えられています。

また、傍らのタブノキは、当時供養のため、植えられたそうです。

また、幕末に井伊直弼がここを訪れ、石垣などを寄進したといわれています。

天文13年(1544年)12月井伊直平の嫡子直宗公の舎弟直満並びに直義兄弟は、戦国大名今川氏と武田氏両軍の対立に際し、家老である小野和泉守道高の讒言(ざんげん)により、駿河の今川舘に召喚され、遂に殺害されるに至りました。
里人はこれを憐れみ、末の弟井伊直元公に乞い、供養のため両者の塚を築き遺骨を納めて輪塔を建て塚の上に一本の松を植えたと言い伝えられています。
以来これを濫塔の松、或いは井殿の塚と称し香華が絶えなかったと言うことです。
この里に生まれ、箕輪に封ぜられ、転封して彦根の太守となった井伊直政公は、直親の子で正に直満の孫に当たります。
嘉永5年(1582年)6月、大老井伊掃部直弼公は当地に来訪、此の墓所を礼拝して石垣等を寄進したと伝えられています。
平成元年(1989年)8月吉日
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事件の後、末弟の直元が、居館の一画に供養のための塚を築き、一本の松を植えたと言い伝えられています。

また、傍らのタブノキは、当時供養のため、植えられたそうです。

また、幕末に井伊直弼がここを訪れ、石垣などを寄進したといわれています。

天文13年(1544年)12月井伊直平の嫡子直宗公の舎弟直満並びに直義兄弟は、戦国大名今川氏と武田氏両軍の対立に際し、家老である小野和泉守道高の讒言(ざんげん)により、駿河の今川舘に召喚され、遂に殺害されるに至りました。
里人はこれを憐れみ、末の弟井伊直元公に乞い、供養のため両者の塚を築き遺骨を納めて輪塔を建て塚の上に一本の松を植えたと言い伝えられています。
以来これを濫塔の松、或いは井殿の塚と称し香華が絶えなかったと言うことです。
この里に生まれ、箕輪に封ぜられ、転封して彦根の太守となった井伊直政公は、直親の子で正に直満の孫に当たります。
嘉永5年(1582年)6月、大老井伊掃部直弼公は当地に来訪、此の墓所を礼拝して石垣等を寄進したと伝えられています。
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