2017.01/08 [Sun]
龍潭寺(1)井伊直政出世の地
井伊谷 龍潭寺は次郎法師・井伊直虎ゆかりのお寺です。
井伊家、後醍醐天皇の皇子・宗良親王の菩提寺である龍潭寺は、古くは地蔵寺といい、天平5年(733)に行基によって開創されたと伝わっています。
井伊家は藤原鎌足の後裔とされ、藤原共資公(元祖共保公の父)の時、遠江国守として遠州村櫛に下り、共保公より井伊谷の地に移り、約五百年間にわたり、井伊谷の庄を治めました。
保元の乱では源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では御醍醐天皇皇子・宗良親王を迎え北朝と戦いました。
室町時代は今川氏に仕え、桶狭間の戦いで戦死をした井伊家22代・直盛の戒名「龍潭寺殿天運道鑑大居士」をとり龍潭寺と寺号を変えました。
戦国時代になると、24代・井伊直政が浜松城主・徳川家康に仕え、「井伊の赤鬼」と呼ばれるようなり、やがて徳川四天王の筆頭となり、彦根に出世。
幕末には、36代・大老井伊直弼が開国の偉業を成し遂げました。
こうした元祖・井伊共保公より40代に到る祖霊を祀る井伊家の菩提寺が龍潭寺です。

参道

山門

山門を潜ると、正面が石垣になっており、鍵の手に回って、本堂へと進みます。

これは、龍潭寺が、井伊谷城の南の砦の役割を担っていたからだそうです。



井伊家・宗良親王 菩提寺
萬松山 龍潭寺
当寺の歴史は古く、天平5年(733)行基菩薩開創八幡山地蔵寺に始まると伝えられています。寺の南に井伊氏祖共保公出生の伝説を残す八幡宮御手洗の井戸があります。
この寺域はもと井伊八幡宮の境内でしたが、五百年前井伊氏がこの地に龍泰寺(現龍潭寺)を造営しました。
龍潭寺は井伊城南の守り砦の役目を果たしてきた歴史があります。この参道石垣等に小規模ながら城郭造りの跡が残されています。
朱印地であった境内地二万四千坪は、明治政府が没収、その後一万余坪が返還されました。龍潭寺の森は日本の森百選に選ばれています。この森に包まれ点在する龍潭寺伽藍は、江戸時代建立の貴重な文化財で長い歴史をひめてよく保存され今日に至っています。
鐘楼


井伊直政公出世の地の碑


徳川四天王
井伊直政
徳川四天王とうたわれた井伊直政は、永禄4年(1561)2月9日井伊の庄祝田で名門井伊氏の嫡男(あととり)として生まれました。2歳の時に父直親が今川氏真の手により殺され、井伊家は滅亡の危機に立ちます。8歳の時、直政は龍潭寺南渓和尚の計らいで、三河鳳来寺に預けられ成長します。
15歳になった直政は、浜松城主徳川家康の家臣となり数々の武勲を立てます。天正10年武田勝頼を攻め滅ぼした家康は、旧武田軍の「赤備」の軍を直政に付けます。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで、この赤備部隊が活躍し、井伊の赤鬼と恐れられました。この功で直政は6万石に出世、井伊家の再興を果たしました。
慶長5年、関ヶ原合戦で
は東軍の軍監(監督)を勤め徳川軍を勝利に導き、彦根18万石城主となり、徳川軍団の筆頭に出世しました。
慶長7年(1602)2月1日、直政は42歳の生涯を閉じました。
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井伊家、後醍醐天皇の皇子・宗良親王の菩提寺である龍潭寺は、古くは地蔵寺といい、天平5年(733)に行基によって開創されたと伝わっています。
井伊家は藤原鎌足の後裔とされ、藤原共資公(元祖共保公の父)の時、遠江国守として遠州村櫛に下り、共保公より井伊谷の地に移り、約五百年間にわたり、井伊谷の庄を治めました。
保元の乱では源義朝に、鎌倉時代には源頼朝に仕え、南北朝時代では御醍醐天皇皇子・宗良親王を迎え北朝と戦いました。
室町時代は今川氏に仕え、桶狭間の戦いで戦死をした井伊家22代・直盛の戒名「龍潭寺殿天運道鑑大居士」をとり龍潭寺と寺号を変えました。
戦国時代になると、24代・井伊直政が浜松城主・徳川家康に仕え、「井伊の赤鬼」と呼ばれるようなり、やがて徳川四天王の筆頭となり、彦根に出世。
幕末には、36代・大老井伊直弼が開国の偉業を成し遂げました。
こうした元祖・井伊共保公より40代に到る祖霊を祀る井伊家の菩提寺が龍潭寺です。

参道

山門

山門を潜ると、正面が石垣になっており、鍵の手に回って、本堂へと進みます。

これは、龍潭寺が、井伊谷城の南の砦の役割を担っていたからだそうです。



井伊家・宗良親王 菩提寺
萬松山 龍潭寺
当寺の歴史は古く、天平5年(733)行基菩薩開創八幡山地蔵寺に始まると伝えられています。寺の南に井伊氏祖共保公出生の伝説を残す八幡宮御手洗の井戸があります。
この寺域はもと井伊八幡宮の境内でしたが、五百年前井伊氏がこの地に龍泰寺(現龍潭寺)を造営しました。
龍潭寺は井伊城南の守り砦の役目を果たしてきた歴史があります。この参道石垣等に小規模ながら城郭造りの跡が残されています。
朱印地であった境内地二万四千坪は、明治政府が没収、その後一万余坪が返還されました。龍潭寺の森は日本の森百選に選ばれています。この森に包まれ点在する龍潭寺伽藍は、江戸時代建立の貴重な文化財で長い歴史をひめてよく保存され今日に至っています。
鐘楼


井伊直政公出世の地の碑


徳川四天王
井伊直政
徳川四天王とうたわれた井伊直政は、永禄4年(1561)2月9日井伊の庄祝田で名門井伊氏の嫡男(あととり)として生まれました。2歳の時に父直親が今川氏真の手により殺され、井伊家は滅亡の危機に立ちます。8歳の時、直政は龍潭寺南渓和尚の計らいで、三河鳳来寺に預けられ成長します。
15歳になった直政は、浜松城主徳川家康の家臣となり数々の武勲を立てます。天正10年武田勝頼を攻め滅ぼした家康は、旧武田軍の「赤備」の軍を直政に付けます。天正12年(1584)小牧・長久手の戦いで、この赤備部隊が活躍し、井伊の赤鬼と恐れられました。この功で直政は6万石に出世、井伊家の再興を果たしました。
慶長5年、関ヶ原合戦で
は東軍の軍監(監督)を勤め徳川軍を勝利に導き、彦根18万石城主となり、徳川軍団の筆頭に出世しました。
慶長7年(1602)2月1日、直政は42歳の生涯を閉じました。
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