Entries
2017.08/23 [Wed]
小野但馬守政次を祀る二宮神社
二宮神社 は、井伊郷の荘司である三宅氏の始祖・多道間守を祀る神社です。

元中2年(1385)には南朝方、後醍醐天皇の第4皇子である宗良親王を合祀し、二柱の神霊を祭祀するようになり現社号となりました。



江戸時代になり、井伊家が彦根に移った後、新しい領主が、小野政次の霊を但馬明神として祀りました。


現在は、拝殿横の天王社に合祀されています。



二宮神社の神主を務めた中井家に伝わる話によると、政次は井伊家の一門衆から切腹を命じられ、その後、怨霊となって祟ったため、「但馬明神」として祀られたといいます。

最近は、こんな説明板も登場(゚Д゚)
小野政次(小野但馬守 井伊家の筆頭家老)
幼少時 鶴丸
一時井伊谷城城主 NHK大河ドラマにて高橋一生が好演中!

井伊直虎を追い立てて井伊谷城を専横した小野政次の天下はわずか34日間のことでした。
遠江侵攻を開始した徳川家康によって井伊谷城は攻めこまれると、山中に逃亡し捕らえられ小野政次とその幼い子息2人は刑場・蟹淵(井伊谷川)において処刑された。
人々はこれを哀れみ、その霊を鎮めんと経塚に続いて二宮神社の境内に小野政次を祭神とした但馬社が建てられた。(現在は天王社に合祀されている)
永禄11年 1568年の事 逆臣なれど祟りを恐れる
二宮神社物語より

当二宮神社は多道間守と宗良親王との御二柱 を御祭神としております。往古は三宅神社と 称し奉り、天日槍尊の4世で、井伊郷の荘司 三宅氏の始祖 多道間守の尊霊を奉祀した 延喜式の式内社に列せられた霊社であります。第11代垂仁天皇の勅諚に応え常世の国から 我国へ橘を将来したのがこの祖神多道間守で当地発祥の井伊家は式内社渭伊神社を象徴する井桁と、当三宅神社の橘とを家紋と致しました。
元中2年8月10日(西暦1385年)後醍醐天皇の皇子宗良親王が井伊城に薨ぜられるや9月南帝の勅使中院為久郷、中院少将定平朝臣下向、御連枝の方廣寺開山、圓明大師を御導師として葬送の御儀を執行い、当三宅神社に尊霊を合祀し奉り、慈来二柱の神霊を祭祀するため二宮神社と改称し奉りました。 二宮神社氏子
にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。
応援よろしくお願いします!

にほんブログ村
歴女日記ブログランキングに参加しています。
ご協力お願いしますm(__)m

歴女日記 ブログランキングへ

元中2年(1385)には南朝方、後醍醐天皇の第4皇子である宗良親王を合祀し、二柱の神霊を祭祀するようになり現社号となりました。



江戸時代になり、井伊家が彦根に移った後、新しい領主が、小野政次の霊を但馬明神として祀りました。


現在は、拝殿横の天王社に合祀されています。



二宮神社の神主を務めた中井家に伝わる話によると、政次は井伊家の一門衆から切腹を命じられ、その後、怨霊となって祟ったため、「但馬明神」として祀られたといいます。

最近は、こんな説明板も登場(゚Д゚)
小野政次(小野但馬守 井伊家の筆頭家老)
幼少時 鶴丸
一時井伊谷城城主 NHK大河ドラマにて高橋一生が好演中!

井伊直虎を追い立てて井伊谷城を専横した小野政次の天下はわずか34日間のことでした。
遠江侵攻を開始した徳川家康によって井伊谷城は攻めこまれると、山中に逃亡し捕らえられ小野政次とその幼い子息2人は刑場・蟹淵(井伊谷川)において処刑された。
人々はこれを哀れみ、その霊を鎮めんと経塚に続いて二宮神社の境内に小野政次を祭神とした但馬社が建てられた。(現在は天王社に合祀されている)
永禄11年 1568年の事 逆臣なれど祟りを恐れる
二宮神社物語より

当二宮神社は多道間守と宗良親王との御二柱 を御祭神としております。往古は三宅神社と 称し奉り、天日槍尊の4世で、井伊郷の荘司 三宅氏の始祖 多道間守の尊霊を奉祀した 延喜式の式内社に列せられた霊社であります。第11代垂仁天皇の勅諚に応え常世の国から 我国へ橘を将来したのがこの祖神多道間守で当地発祥の井伊家は式内社渭伊神社を象徴する井桁と、当三宅神社の橘とを家紋と致しました。
元中2年8月10日(西暦1385年)後醍醐天皇の皇子宗良親王が井伊城に薨ぜられるや9月南帝の勅使中院為久郷、中院少将定平朝臣下向、御連枝の方廣寺開山、圓明大師を御導師として葬送の御儀を執行い、当三宅神社に尊霊を合祀し奉り、慈来二柱の神霊を祭祀するため二宮神社と改称し奉りました。 二宮神社氏子
にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。
応援よろしくお願いします!

にほんブログ村
歴女日記ブログランキングに参加しています。
ご協力お願いしますm(__)m

歴女日記 ブログランキングへ
スポンサーサイト
NoTitle