Entries
2017.03/31 [Fri]
井伊直平の墓
井伊直平の死には諸説あり、『井伊家伝記』によると、永禄6年(1563年)今川氏真が父・義元の弔い合戦をしかけ、直平に三河への出陣を命じました。氏真より遅れて井伊谷を出た直平は、浜名湖の西岸を南下し、白須賀で陣を敷いていました。そのとき、遠州灘の強風が災いし、直平の軍勢から出火。火はたちまち燃え広がり、白須賀のあちこちの集落が焼き払われてしまいました。
これを氏真は、井伊直親の殺害を氏真が命じたことの件で恨みを抱き、直平が謀反を企てていると疑いました。三河吉田まで出陣していた氏真は陣をたたみ、掛川城まで撤退しました。
氏真は直平に今川の家臣だった社山城の城主・天野左衛門尉を攻めるように命じ、直平が出陣の支度を整え、引馬城主の飯尾連竜の妻のお田鶴の方の接待を受け、毒茶を勧められた挙げ句、有玉旗屋の宿にて落馬し服毒死しました。
そのほかに、連竜が直平に毒薬を進め直平は服毒死したとか、敵の急襲を受け討死したとか直平の死は諸説あります。
また直平の死後、従者の大石作左衛門が直平の遺体を故郷の川名に馬で運び、橋の上で、鎧を脱がせ、そのすぐ山に葬り、小さな祠を建て、作左衛門は殉死しました。
鎧を脱がせたことから、その橋は鎧橋を呼ばれ、現在も残っています。



鎧橋からすぐのところに、直平の廟所入り口を見つけたのですが

入り口が恐すぎます(..;)
この先に、民家があることを聞いていたので、勇気を出して進みました。

お~あった~(^^ゞ



にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。
応援よろしくお願いします!

にほんブログ村
歴女日記ブログランキングに参加しています。
ご協力お願いしますm(__)m

歴女日記 ブログランキングへ
これを氏真は、井伊直親の殺害を氏真が命じたことの件で恨みを抱き、直平が謀反を企てていると疑いました。三河吉田まで出陣していた氏真は陣をたたみ、掛川城まで撤退しました。
氏真は直平に今川の家臣だった社山城の城主・天野左衛門尉を攻めるように命じ、直平が出陣の支度を整え、引馬城主の飯尾連竜の妻のお田鶴の方の接待を受け、毒茶を勧められた挙げ句、有玉旗屋の宿にて落馬し服毒死しました。
そのほかに、連竜が直平に毒薬を進め直平は服毒死したとか、敵の急襲を受け討死したとか直平の死は諸説あります。
また直平の死後、従者の大石作左衛門が直平の遺体を故郷の川名に馬で運び、橋の上で、鎧を脱がせ、そのすぐ山に葬り、小さな祠を建て、作左衛門は殉死しました。
鎧を脱がせたことから、その橋は鎧橋を呼ばれ、現在も残っています。



鎧橋からすぐのところに、直平の廟所入り口を見つけたのですが

入り口が恐すぎます(..;)
この先に、民家があることを聞いていたので、勇気を出して進みました。

お~あった~(^^ゞ



にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。
応援よろしくお願いします!

にほんブログ村
歴女日記ブログランキングに参加しています。
ご協力お願いしますm(__)m

歴女日記 ブログランキングへ
スポンサーサイト
NoTitle