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2017.07/14 [Fri]
舘山寺(1)
浜名湖の舘山寺は、曹洞宗の寺院で、秋葉山秋葉寺の末寺です。
舘山寺(かんざんじ)という寺号は、舘山(たてやま)に開かれた寺であることから舘山の寺という意で名付けられたものです。

御本尊は、福一万願虚空蔵菩薩(ふくいちまんがんこくうぞうぼさつ)という無限の知識と慈悲をもち、知恵と福徳を授けてくれる仏様です。

中嶺山額

天台宗の僧侶であり書家として有名な豪潮(1749~1835)による揮豪。
中嶺山の意は 大草山 五陣山 舘山の内浦湾を囲む3つの山の中心である舘山を意味する山号です。
平安時代・弘仁元年(810)
弘法大師が高野山より仏道行脚の際、舘山を訪れて当地において修行し、その際に開創。
旅する人々の心を清める寺として、山紫水明のこの地を選んだといわれている。
鎌倉時代・文治三年(1187)
兵火により焼失したが、源頼朝公がこの地を訪れ、道中安全・武運長久の祈願寺として諸堂を再建した。(頼朝の建立した諸堂や寺宝は元中元年(1384)に再び兵火により焼失)
南北朝時代・貞治年間(1362)
堀江城(遊園地パルパル、ホテル九重付近)の城主として、当地に赴任した大沢氏の要請により城主の祈願寺として、以後五百年守られる。
江戸時代・慶長三年(1589)
徳川家康公により御朱印判物を賜り東海の名刹として繁栄した。
明治三年(1870)
新政府の神仏分離令(廃仏棄釈)により廃寺となる。
明治二十三年(1890)
再興が認められ秋葉の火祭りで有名な秋葉山・秋葉寺(しゅうようじ)住職・牧泰禅(まきたいぜん)和尚を招請し、秋葉寺の出張所を持ってくる名目で再興した。
その際に秋葉三尺坊を舘山寺でも祀ることになり、山号も「中嶺山」(ちゅうれいざん)から「秋葉山」に改め真言宗の伝統を引き継ぎながら曹洞宗の祈願寺として今日に至る。 (舘山寺HPより)

鎮守として祀られている秋葉三尺坊大権現

天狗扁額

中国蘇州・寒山寺の梵鐘
明治38年(1905年)に日本の初代首相の伊藤博文から、中国の寒山寺と当寺に寄贈された鐘の複製。
当時の住職牧奉禅々師が伊藤博文と交友があり、中国との友好を祈願し両寺に同じ梵鐘を寄贈しました。 当寺の梵鐘は太平洋戦争時に、資源として国に寄付したため消失してしまいました。寒山寺に現存する対の梵鐘から複製を造り展示しています。
(舘山寺公式HPより)


大沢基胤
大永6年(1526年)、大沢基相の子として誕生。遠江国の浜名湖の東岸に位置する堀江城を有し、今川氏に従っていた。
永禄11年末(1568年)、徳川家康が遠江へ侵攻するが、基相の居城・堀江城への攻撃は後回しにされていた。しかし、曳馬城を攻め落とし、引き続き掛川城を攻めたてる家康は軍の一部を割いて、永禄12年3月12日(1569年4月8日)、基胤の属将が守る堀川城を一日で攻め落とす。同25日(4月21日)には井伊谷衆(近藤康用と秀用親子、鈴木重時、菅沼忠久)に命じて引き続き、基胤の堀江城を攻撃させた。渡辺高綱、菅沼定盈を正、副の目付けとした堀江城攻撃軍に対し、基胤は中安兵部・権田織部泰長らを率いて、数度に渡り徳川勢に逆襲をかけるなど頑強な抵抗を示し続けた。そのため、攻城軍は鈴木重時を始めとする多大な犠牲を払いながら、陥落させられずにいた。
今川氏真が逃れていた掛川城への攻撃に専念したい家康は、いっこうに朗報の入らない堀江城の戦況に業を煮やすと、渡辺成忠を使者として遣わし、徳川方への帰順を条件として大沢氏の本領安堵を約束する誓書を与えた。基胤もその勧告を受け入れた。永禄12年4月12日(1569年5月8日)、堀川城において徳川方の石川数正・酒井忠次、大沢方の中安兵部・権田泰長の4名によって、和議が成立。以後は、徳川配下として、小牧・長久手の戦いなどに従軍した。長篠の戦いには酒井忠次に従って参戦した。
慶長10年6月28日(1605年8月12日)、死去。(Wikipediaより)
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舘山寺(かんざんじ)という寺号は、舘山(たてやま)に開かれた寺であることから舘山の寺という意で名付けられたものです。

御本尊は、福一万願虚空蔵菩薩(ふくいちまんがんこくうぞうぼさつ)という無限の知識と慈悲をもち、知恵と福徳を授けてくれる仏様です。

中嶺山額

天台宗の僧侶であり書家として有名な豪潮(1749~1835)による揮豪。
中嶺山の意は 大草山 五陣山 舘山の内浦湾を囲む3つの山の中心である舘山を意味する山号です。
平安時代・弘仁元年(810)
弘法大師が高野山より仏道行脚の際、舘山を訪れて当地において修行し、その際に開創。
旅する人々の心を清める寺として、山紫水明のこの地を選んだといわれている。
鎌倉時代・文治三年(1187)
兵火により焼失したが、源頼朝公がこの地を訪れ、道中安全・武運長久の祈願寺として諸堂を再建した。(頼朝の建立した諸堂や寺宝は元中元年(1384)に再び兵火により焼失)
南北朝時代・貞治年間(1362)
堀江城(遊園地パルパル、ホテル九重付近)の城主として、当地に赴任した大沢氏の要請により城主の祈願寺として、以後五百年守られる。
江戸時代・慶長三年(1589)
徳川家康公により御朱印判物を賜り東海の名刹として繁栄した。
明治三年(1870)
新政府の神仏分離令(廃仏棄釈)により廃寺となる。
明治二十三年(1890)
再興が認められ秋葉の火祭りで有名な秋葉山・秋葉寺(しゅうようじ)住職・牧泰禅(まきたいぜん)和尚を招請し、秋葉寺の出張所を持ってくる名目で再興した。
その際に秋葉三尺坊を舘山寺でも祀ることになり、山号も「中嶺山」(ちゅうれいざん)から「秋葉山」に改め真言宗の伝統を引き継ぎながら曹洞宗の祈願寺として今日に至る。 (舘山寺HPより)

鎮守として祀られている秋葉三尺坊大権現

天狗扁額

中国蘇州・寒山寺の梵鐘
明治38年(1905年)に日本の初代首相の伊藤博文から、中国の寒山寺と当寺に寄贈された鐘の複製。
当時の住職牧奉禅々師が伊藤博文と交友があり、中国との友好を祈願し両寺に同じ梵鐘を寄贈しました。 当寺の梵鐘は太平洋戦争時に、資源として国に寄付したため消失してしまいました。寒山寺に現存する対の梵鐘から複製を造り展示しています。
(舘山寺公式HPより)


大沢基胤
大永6年(1526年)、大沢基相の子として誕生。遠江国の浜名湖の東岸に位置する堀江城を有し、今川氏に従っていた。
永禄11年末(1568年)、徳川家康が遠江へ侵攻するが、基相の居城・堀江城への攻撃は後回しにされていた。しかし、曳馬城を攻め落とし、引き続き掛川城を攻めたてる家康は軍の一部を割いて、永禄12年3月12日(1569年4月8日)、基胤の属将が守る堀川城を一日で攻め落とす。同25日(4月21日)には井伊谷衆(近藤康用と秀用親子、鈴木重時、菅沼忠久)に命じて引き続き、基胤の堀江城を攻撃させた。渡辺高綱、菅沼定盈を正、副の目付けとした堀江城攻撃軍に対し、基胤は中安兵部・権田織部泰長らを率いて、数度に渡り徳川勢に逆襲をかけるなど頑強な抵抗を示し続けた。そのため、攻城軍は鈴木重時を始めとする多大な犠牲を払いながら、陥落させられずにいた。
今川氏真が逃れていた掛川城への攻撃に専念したい家康は、いっこうに朗報の入らない堀江城の戦況に業を煮やすと、渡辺成忠を使者として遣わし、徳川方への帰順を条件として大沢氏の本領安堵を約束する誓書を与えた。基胤もその勧告を受け入れた。永禄12年4月12日(1569年5月8日)、堀川城において徳川方の石川数正・酒井忠次、大沢方の中安兵部・権田泰長の4名によって、和議が成立。以後は、徳川配下として、小牧・長久手の戦いなどに従軍した。長篠の戦いには酒井忠次に従って参戦した。
慶長10年6月28日(1605年8月12日)、死去。(Wikipediaより)
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