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2017.08/22 [Tue]
小野但馬守政次終焉の地
二宮神社の北東、遠鉄バス上町のバス停から数分行ったところに、小野政次終焉の地の供養塔があります。

今年の4月7日の政次の命日に、供養塔の前に「小野政次終焉の地」と書いかれた案内板が設置されました。

それまでは、何の説明板もなかったのですが、昨年、二宮神社を参拝した際、このお墓のようなものが気になり、とりあえず写真を撮っておきました。
後になって、政次の終焉の地と知りびっくり!
案内板まで設置されたということで、再度訪ねてきたという次第です。
供養塔

大きな白い石が政次、手前の小さな2つの石が処刑された息子たちのものと伝えられています。

石群には、小野家と親交のあったという「中井家」と刻まれた供養塔が多く、政次らの供養塔も、中井家によってつくられたのではないかということです。

小野但馬守は今川氏から井伊家の目付け役に任じられ、井伊直虎が領主を務めた後に井伊領を一時的に治めたとされています。
徳川家康が井伊谷に侵攻した際、捕らえられ4月7日、井伊谷川蟹淵にて処刑。首を刎ねられた後、胴と首をつなげて獄門磔にされたといいます。法名 南江玄策沙弥。
さらに5月7日、政次の子2人も処刑されました。子どもの法名は、兄が幼泡童子、弟が幼手童子で、但馬のものとともに南渓和尚がつけたといいます。
ドラマでは、高橋一生さん演じる但馬守は、井伊家のことを第一に考え、こどもの頃から直虎だけを愛する人として描かれていますが、本当のところはどうだったのでしょうね。
最近では「奸臣説」に対する疑問があり、
『井伊家伝記』では井伊谷を横領した「悪役」として描かれる道好であるが、夏目琢史は著書で『井伊家伝記』が書かれた江戸時代、徳川氏が絶対的で批判のできない存在となっており、小野氏を悪役に仕立てることで徳川氏・井伊谷三人衆・井伊氏の大義名分を確保した可能性や、当時の井伊氏家臣団の間に深刻な内部対立があった影響である説を指摘した。また井伊家が「横領」のために結果として徳川とも今川とも対峙することなく身の安全を確保できたことは都合が良すぎ、浜名氏が家康の遠江侵攻に際し、側近の大矢氏に後を任せて逃亡したのと同じようなことが起きていたのではないかと推察した。
大石泰史は通説とされてきた道好の「専横」を疑問視しており、根拠として、『井伊家伝記』では永禄11年12月の武田信玄による駿河侵攻以後に横領が始まったとされるが、それを止めた井伊谷三人衆による徳川の引込はほぼ同時期でありそのような行動を取る時間的余裕がないこと、さらに家康入国のわずか1か月前である同年11月9日に直虎が井伊谷徳政の文書を発給し井伊家の当主代行者として政務を取り行っているため、この時点で道好が勝手なふるまいはできなかったはずだとしている。
(Wikipediaより)
もしも政次が、奸臣でなかったとしたら、このような石でしかお墓がつくられなかったのはお気の毒なことです。
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今年の4月7日の政次の命日に、供養塔の前に「小野政次終焉の地」と書いかれた案内板が設置されました。

それまでは、何の説明板もなかったのですが、昨年、二宮神社を参拝した際、このお墓のようなものが気になり、とりあえず写真を撮っておきました。
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供養塔

大きな白い石が政次、手前の小さな2つの石が処刑された息子たちのものと伝えられています。

石群には、小野家と親交のあったという「中井家」と刻まれた供養塔が多く、政次らの供養塔も、中井家によってつくられたのではないかということです。

小野但馬守は今川氏から井伊家の目付け役に任じられ、井伊直虎が領主を務めた後に井伊領を一時的に治めたとされています。
徳川家康が井伊谷に侵攻した際、捕らえられ4月7日、井伊谷川蟹淵にて処刑。首を刎ねられた後、胴と首をつなげて獄門磔にされたといいます。法名 南江玄策沙弥。
さらに5月7日、政次の子2人も処刑されました。子どもの法名は、兄が幼泡童子、弟が幼手童子で、但馬のものとともに南渓和尚がつけたといいます。
ドラマでは、高橋一生さん演じる但馬守は、井伊家のことを第一に考え、こどもの頃から直虎だけを愛する人として描かれていますが、本当のところはどうだったのでしょうね。
最近では「奸臣説」に対する疑問があり、
『井伊家伝記』では井伊谷を横領した「悪役」として描かれる道好であるが、夏目琢史は著書で『井伊家伝記』が書かれた江戸時代、徳川氏が絶対的で批判のできない存在となっており、小野氏を悪役に仕立てることで徳川氏・井伊谷三人衆・井伊氏の大義名分を確保した可能性や、当時の井伊氏家臣団の間に深刻な内部対立があった影響である説を指摘した。また井伊家が「横領」のために結果として徳川とも今川とも対峙することなく身の安全を確保できたことは都合が良すぎ、浜名氏が家康の遠江侵攻に際し、側近の大矢氏に後を任せて逃亡したのと同じようなことが起きていたのではないかと推察した。
大石泰史は通説とされてきた道好の「専横」を疑問視しており、根拠として、『井伊家伝記』では永禄11年12月の武田信玄による駿河侵攻以後に横領が始まったとされるが、それを止めた井伊谷三人衆による徳川の引込はほぼ同時期でありそのような行動を取る時間的余裕がないこと、さらに家康入国のわずか1か月前である同年11月9日に直虎が井伊谷徳政の文書を発給し井伊家の当主代行者として政務を取り行っているため、この時点で道好が勝手なふるまいはできなかったはずだとしている。
(Wikipediaより)
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NoTitle
やっぱりご縁があったのでしょうね!
大河ドラマでは直虎との丁々発止の場面が面白かったです!