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2018.01/02 [Tue]
井伊直孝産湯の井
焼津市中里に、井伊直政の次男である彦根藩2代目藩主・井伊直孝の産湯の井があります。







彦根藩の初代藩主である父の井伊直政は、徳川四天王の一人と称えられた大名でした。家康が関東に移る際に井伊家も上野国箕輪に移つることになり、直政は東海道を通った折、岡部宿本陣に泊まり、中里出身の娘が、身の回りのお世話をすることになりました。直政は娘をたいそう気に入ったといいます。
その後、天正18年(1590)、娘は男の子を産みました。この子が後の井伊直孝で、出産の時の産湯を汲んだのが「井伊直孝産湯の井」と伝えられています。
他にも、直孝の母は、直政の正室の侍女で、身ごもったため屋敷を出て、中里で直孝を産んだいう説もあります。
(滋賀彦根新聞より)
この井戸は、2013年に焼津市指定文化財に指定されました。
直孝の幼名は弁之助と言い、小さいころから度胸がすわっていて、誠実で裏表がない性格で、少年のころ家に忍び込んだ盗賊を退治した話や、招き猫の由来となった言い伝えなど、多くの逸話が残る人物でもあります。
父の直政は戦場で「井伊の赤鬼」と恐れられましたが、息子の直孝も大変勇敢で戦術に優れ、大坂夏の陣では大きな功績を上げて「井伊の赤牛」の異名を誇りました。直孝は徳川家康から絶大な信頼を得て彦根城主となり、家康に続く将軍・秀忠の遺言で、三代将軍家光の後見人に指名されるなど歴代の将軍の信任が厚く、戦場だけでなく、徳川幕府の内政や外交にも大きな力を発揮して、譜代大名の中で最大の領土を与えられました。


井戸のそばに「井伊掃部頭直孝朝臣産湯之井」と刻まれた石碑が建っています。

また近くには、直孝が寛永6年(1629年)に自分の生まれた中里を訪れた際に再建した若宮八幡宮があります。(焼津市HPより)
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彦根藩の初代藩主である父の井伊直政は、徳川四天王の一人と称えられた大名でした。家康が関東に移る際に井伊家も上野国箕輪に移つることになり、直政は東海道を通った折、岡部宿本陣に泊まり、中里出身の娘が、身の回りのお世話をすることになりました。直政は娘をたいそう気に入ったといいます。
その後、天正18年(1590)、娘は男の子を産みました。この子が後の井伊直孝で、出産の時の産湯を汲んだのが「井伊直孝産湯の井」と伝えられています。
他にも、直孝の母は、直政の正室の侍女で、身ごもったため屋敷を出て、中里で直孝を産んだいう説もあります。
(滋賀彦根新聞より)
この井戸は、2013年に焼津市指定文化財に指定されました。
直孝の幼名は弁之助と言い、小さいころから度胸がすわっていて、誠実で裏表がない性格で、少年のころ家に忍び込んだ盗賊を退治した話や、招き猫の由来となった言い伝えなど、多くの逸話が残る人物でもあります。
父の直政は戦場で「井伊の赤鬼」と恐れられましたが、息子の直孝も大変勇敢で戦術に優れ、大坂夏の陣では大きな功績を上げて「井伊の赤牛」の異名を誇りました。直孝は徳川家康から絶大な信頼を得て彦根城主となり、家康に続く将軍・秀忠の遺言で、三代将軍家光の後見人に指名されるなど歴代の将軍の信任が厚く、戦場だけでなく、徳川幕府の内政や外交にも大きな力を発揮して、譜代大名の中で最大の領土を与えられました。


井戸のそばに「井伊掃部頭直孝朝臣産湯之井」と刻まれた石碑が建っています。

また近くには、直孝が寛永6年(1629年)に自分の生まれた中里を訪れた際に再建した若宮八幡宮があります。(焼津市HPより)
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