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大河ドラマに恋して

NHK大河ドラマ「西郷どん」「おんな城主直虎」「真田丸」「花燃ゆ」「軍師官兵衛」「八重の桜」「平清盛」「江」の史跡巡りと歴旅紀行

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木屋町通の幕末維新の史跡(1)

京都の高瀬川に接する木屋町通は、諸藩の武士達が集結したところであり、この一帯に拠点を置いて、密議を交わしていたといいます。

IMG_8155 高瀬川

そのため、坂本龍馬や桂小五郎らの潜居跡や石碑などがあちこちに立っており、大村益次郎や本間精一郎、佐久間象山などが殉難しています。

IMG_8144 高瀬川

IMG_8153 高瀬川

IMG_8156 高瀬川

本間 精一郎は、越後国三島郡寺泊(現新潟県長岡市)出身の勤皇の志士。早くから江戸や京で学び、尊王攘夷の思想に目覚める。
本間は故郷越後から江戸に出て清河八郎らと親交を結び、清河より一足早く京に上って、薩摩や土佐に倒幕を説いた。しかし、利発で勝気な気性の彼は論争に強く自己の実績を過大に喧伝していため、薩摩や土佐の貧しい出の浪士たちや、彼の存在を疎ましく思う同志が、彼にしこたまの酒を飲ませてからの殺害を企てた。その計画にまんまとはまり、同志の凶刃に斃れることとなった(実行者は田中新兵衛・岡田以蔵と言われる)。本間の死後に維新を成し遂げた新政府は従五位の官位を彼に贈っている(ほかに、長州の吉田松陰・久坂玄瑞など幕末に斃れた同志に対して新政府より官位が贈られている)。(Wikipediaより抜粋)

本間精一郎 遭難地の碑
IMG_8147 本間精一郎

本間 精一郎 遭難地
IMG_8146 本間精一郎

文久二年(1862)潤八月二十日夜、勤王の志士・本間精一郎はここで襲われた。精一郎は越後(現在の新潟県)に生まれ、文武両道に秀で弁舌も巧みで、友人も多かったという。江戸に出て遊学し、安政の大獄の後、京の都に上がって尊王攘夷活動に身を投じた。特定の藩に属さなかったため、自由に行動することができ、公卿にも接触を図り、長州や薩摩、土佐の藩士にも遊説をし、尊王攘夷思想の急進派とされていた。しかしその活動は伏見「寺田屋事件」で封じられ、精一郎はその頃から酒色におぼれ、仲間にも罵声を浴びせるようになり、同志からも次第に嫌われるようになったという。この夜、先斗町三条の料亭で遊び、四条の料理屋を出た帰り道を精一郎は襲われた。前から二人、後ろから六人に挟み撃ちにされ惨殺された。襲った八人の中には薩摩藩の田中新兵衛や土佐藩の岡田以蔵もいたという。本間精一郎、時に二十九歳であった。(駒札より)


土佐藩出身の尊王攘夷派の志士である吉村寅太郎は、1861年(文久1)、武市瑞山の勤王党に加盟。翌年脱藩して国事に奔走したが、寺田屋事件に連座して土佐に下獄した。1863年再び上京し、天誅組を組織。大和五条の幕府代官所を襲撃。のち9月敗死した。

木屋町通の武市瑞山の寓居跡の隣りに、吉村寅太郎の寓居跡があります。

IMG_9959 B

吉村寅太郎寓居址

天保八年四月十八日(一八三七)土佐国高岡郡北川村の土佐藩の庄屋に生まれる。武市半平太(瑞山)に剣術を学び尊攘思想に傾倒し武市が土佐勤王党を結成すると加盟。久坂玄瑞・平野国臣らと交流し尊攘倒幕思想に影響を受ける。文久二年(一八六二)坂本龍馬らと脱藩して上京し国事に奔走するが、寺田屋事件で捕えらえて土佐に送還され投獄される。保釈後、再度上洛して武市の寓居「丹虎」の隣に居を構える。文久三年、侍従中山忠光(明治天皇の叔父)らと天誅組を組織して大和国で倒幕の兵をあげ五條代官所を占拠するが、八月十八日の政変で情勢が一変し幕府軍の攻撃を受け四十日余りで文久三年九月二十七日(一八六三)大和国吉野にて戦死しました。 三条小橋商店街振興組合

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武市瑞山寓居跡の碑

京都市中京区木屋町通に武市瑞山寓居跡の碑が、ちりめん洋服発祥の地の碑と並んで建っています。

20100318_1129594.jpg

武市瑞山は、尊王攘夷を志し土佐勤王党を結成しました。
武市半平太(たけち はんぺいた)と称されることが多いですね。
坂本龍馬とは遠縁にあたります。

京都では、初めは土佐藩邸を拠点としていましたが、密議を交わすめに木屋町姉小路に寓居することになりました。
ここで、本間精一郎を暗殺する密議を交わし、瑞山の家で、誰が手を下すかくじ引きで決めたとも言われているそうです。

武市瑞山

優れた剣術家であったが、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8ヶ月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した。(Wikipedaiaより)

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Comment

NoTitle 

徳川幕府も時代の変化と共に
良いとされてた制度が逆に幕府を追い込んで滅亡させてしまう結果になってしまいまぢたね。
大体の政権はそうして滅んで行ったから
長所と短所は同じだな。
応援!
  • posted by せいパパ 
  • URL 
  • 2018.06/12 06:40分 
  • [Edit]

NoTitle 

本当に京都の木屋町通には「幕末維新の史跡」の碑文が沢山ありますね!
  • posted by willy_tsuguo_shikata 
  • URL 
  • 2018.06/12 07:00分 
  • [Edit]

NoTitle 

こんにちは。
けっこうこの高瀬川へも、
なんども行ってるところです。
ただこのようなところがあるとはで、
初めてこうして見せて聞かせていただきました。
応援ポチ☆
  • posted by マーチャン 
  • URL 
  • 2018.06/12 13:35分 
  • [Edit]

NoTitle 

高瀬川というと
森鴎外の「高瀬舟」を
どうしても思い出します。

安楽死をテーマにした
今思えば重い作品でしたね。

応援ぽち
  • posted by よっちん 
  • URL 
  • 2018.06/12 19:19分 
  • [Edit]

こんばんは 

こんばんは。
勉強不足で良く分かりませんけど。
この辺りは良い所ですね。
京都はどこも好きです。
しかしなかなか行かれないのが残念です。
  • posted by 自転車親父 
  • URL 
  • 2018.06/12 19:39分 
  • [Edit]

皆様へ 

こんばんは!
今日もコメントありがとうございました

この辺り、今でこそ情緒のある通りで、川沿いを散策している人で、賑わっていますが、当時は物騒だったのですね。

高瀬川といえば、私も真っ先に森鴎外の「高瀬舟」を
思い出します。国語の教科書にも出てきますね。
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2018.06/13 00:29分 
  • [Edit]

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Author:しずか
毎年の大河ドラマに合わせて旅行、史跡めぐりをしています。

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