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2018.07/14 [Sat]
七卿落ち(3)七卿一行三田尻へ
八月十八日の政変により、京を追われることになった三条実美をはじめとする尊王攘夷派の7人の公家らは、京都の妙法院に集結した後、兵庫津を経て、海路で長州藩の三田尻港(山口県防府市)を目指したのですが、途上悪天候のため、3隻のうち2隻が徳山藩の徳山港(山口県周南市)に上陸し、ここから陸路、三田尻に向かうことに。
七卿らを兵庫まで警護した責任者は長州藩士、益田親施(ますだちかのぶ)でした。親施は、益田家第33代当主、長州藩永代家老で、益田右衛門介として知られています。
1863年には上洛して孝明天皇に謁見し、真木保臣らと共に過激な尊皇攘夷に走ろうとしましたが、八月十八日の政変で、尊皇攘夷派が京都から追放されると、益田は7人の公卿を連れ、兵庫に下ることになりました。
山口県萩市の旧萩城三の丸の堀内に、益田家屋敷の一部が残っています。
旧益田家物見矢倉
武器を収納する倉を矢倉といい、天井が高いものは物見矢倉と呼ばれ、益田家屋敷が城下と結ぶ北の総門に近い位置にあったため、見張り台も兼ねていたそうです。
かつて萩城の各総門に物見矢倉が配置されていましたが、現存するのはここだけとか。
三田尻は、萩城下唐樋から三田尻御茶屋まで続く萩往還の終点であり、大名の参勤交代の道として整備され、多くの人々に利用されました。
三田尻御茶屋(みたじりおちゃや)は、江戸時代、承応3年(1654)萩藩2代藩主・毛利綱広によって建てられた長州藩の公館で、藩主の参勤交代や領内巡視時の休憩、また迎賓に使われていました。
7代藩主の重就は、家督を譲って隠居した翌年の1783年(天明3年)に大規模な改築を行い、大観楼などの建設を行いました。改修後に重就は三田尻御茶屋へ移住して、晩年の6年間を防府で過ごしています。この時、三田尻茶屋は「三田尻御殿」と呼ばれていましたが、重就の死後には三田尻御殿の名称は廃され、規模は縮小され、重就の法名にちなんで
「英雲荘」と命名されました。
1851年(嘉永4年)に、13代藩主・敬親が行った改築により、現在とほぼ同じ規模に。
1863年(文久3年)には、京都を追われた三条実美ら7人の公卿が三田尻御茶屋の大観楼棟に約2ヶ月滞在し、敬親や高杉晋作らと面会。さらに、敷地の北側に招賢閣(しょうけんかく)が建てられ、三条らの会議場所となりました。招賢閣には幕末の志士達が足繁く立ち寄りましたが、1864年(元治元年)の禁門の変の後には廃止され、さらに明治維新後に解体されました。
三田尻御茶屋そのものは明治時代以降も毛利家の別邸として使用されました。
昭和14年(1939)毛利家から防府市に寄付され、現在では萩往還関連遺跡 三田尻御茶屋旧構内英雲荘として国の史跡に指定されています。
1996年(平成8年)からの修復保存作業が終了し、2011年(平成23年)9月より一般に公開されています。
三田尻茶屋の敷地面積は約9530平方メートル、主な建築物は木造平屋2階建ての本館が延べ937平方メートル、木造平屋建ての離れの茶室が延べ139平方メートル。
本館は、江戸時代に建てられた「大観楼棟」、明治時代に建てられた「奥座敷棟」、大正時代に建てられた「玄関棟」と「台所棟」に区分されています。
篆書(てんしょ)でかかれた襖
奥には、毛利重就の掛け軸があります。
茶室・花月楼
安永5年(1776)この地に建設された茶室・花月楼は、現在は松陰神社の敷地内に移築されています。
現在の三田尻茶屋にある花月楼は、周防国分寺に建てられていた茶室を、明治時代に移築したものです。
大観楼棟は、かつては2階から海が見える眺望だったことから付けられた名前だそう。
七人の公卿が滞在し、多くの志士たちが御茶屋の「招賢閣」に集まりました。
七卿の間
ふすまや釘隠しに、長州藩の副紋であるオモダカ紋が用いられています。
先が矢尻のように尖っていることから「勝ち草」といって、 戦いに勝つことにかけていたといいます。
そのため、戦国武将に好まれたそう。
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七卿らを兵庫まで警護した責任者は長州藩士、益田親施(ますだちかのぶ)でした。親施は、益田家第33代当主、長州藩永代家老で、益田右衛門介として知られています。
1863年には上洛して孝明天皇に謁見し、真木保臣らと共に過激な尊皇攘夷に走ろうとしましたが、八月十八日の政変で、尊皇攘夷派が京都から追放されると、益田は7人の公卿を連れ、兵庫に下ることになりました。
山口県萩市の旧萩城三の丸の堀内に、益田家屋敷の一部が残っています。
旧益田家物見矢倉
武器を収納する倉を矢倉といい、天井が高いものは物見矢倉と呼ばれ、益田家屋敷が城下と結ぶ北の総門に近い位置にあったため、見張り台も兼ねていたそうです。
かつて萩城の各総門に物見矢倉が配置されていましたが、現存するのはここだけとか。
三田尻は、萩城下唐樋から三田尻御茶屋まで続く萩往還の終点であり、大名の参勤交代の道として整備され、多くの人々に利用されました。
三田尻御茶屋(みたじりおちゃや)は、江戸時代、承応3年(1654)萩藩2代藩主・毛利綱広によって建てられた長州藩の公館で、藩主の参勤交代や領内巡視時の休憩、また迎賓に使われていました。
7代藩主の重就は、家督を譲って隠居した翌年の1783年(天明3年)に大規模な改築を行い、大観楼などの建設を行いました。改修後に重就は三田尻御茶屋へ移住して、晩年の6年間を防府で過ごしています。この時、三田尻茶屋は「三田尻御殿」と呼ばれていましたが、重就の死後には三田尻御殿の名称は廃され、規模は縮小され、重就の法名にちなんで
「英雲荘」と命名されました。
1851年(嘉永4年)に、13代藩主・敬親が行った改築により、現在とほぼ同じ規模に。
1863年(文久3年)には、京都を追われた三条実美ら7人の公卿が三田尻御茶屋の大観楼棟に約2ヶ月滞在し、敬親や高杉晋作らと面会。さらに、敷地の北側に招賢閣(しょうけんかく)が建てられ、三条らの会議場所となりました。招賢閣には幕末の志士達が足繁く立ち寄りましたが、1864年(元治元年)の禁門の変の後には廃止され、さらに明治維新後に解体されました。
三田尻御茶屋そのものは明治時代以降も毛利家の別邸として使用されました。
昭和14年(1939)毛利家から防府市に寄付され、現在では萩往還関連遺跡 三田尻御茶屋旧構内英雲荘として国の史跡に指定されています。
1996年(平成8年)からの修復保存作業が終了し、2011年(平成23年)9月より一般に公開されています。
三田尻茶屋の敷地面積は約9530平方メートル、主な建築物は木造平屋2階建ての本館が延べ937平方メートル、木造平屋建ての離れの茶室が延べ139平方メートル。
本館は、江戸時代に建てられた「大観楼棟」、明治時代に建てられた「奥座敷棟」、大正時代に建てられた「玄関棟」と「台所棟」に区分されています。
篆書(てんしょ)でかかれた襖
奥には、毛利重就の掛け軸があります。
茶室・花月楼
安永5年(1776)この地に建設された茶室・花月楼は、現在は松陰神社の敷地内に移築されています。
現在の三田尻茶屋にある花月楼は、周防国分寺に建てられていた茶室を、明治時代に移築したものです。
大観楼棟は、かつては2階から海が見える眺望だったことから付けられた名前だそう。
七人の公卿が滞在し、多くの志士たちが御茶屋の「招賢閣」に集まりました。
七卿の間
ふすまや釘隠しに、長州藩の副紋であるオモダカ紋が用いられています。
先が矢尻のように尖っていることから「勝ち草」といって、 戦いに勝つことにかけていたといいます。
そのため、戦国武将に好まれたそう。
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