Entries
2018.11/03 [Sat]
鹿児島の旅(38)篤姫誕生地「春日神社~森有礼誕生地」
大龍寺跡から春日神社へ。

鹿児島五社は島津氏の勧請によるものが多いが、ここは唯一発祥に島津氏と関係のない神社である。
天喜元年(1053年)、藤原純友の5代の孫を称する長谷場直純が鹿児島湾を望む丘陵地に東福寺城を築いた際、その鎮守神として藤原氏の氏神に当たる大和国の春日大社を勧請して創建された。因みに鎮座地は東福寺城の船着き場であったと言われる。
その後、長谷場氏は南北朝時代には南朝側に付いたために北朝側であった島津氏と争うことになり、康永2年(1343年)、島津貞久に依って東福寺城は陥落した。その後東福寺城は戦国時代まで使われたが江戸時代初期に廃城となり当神社だけが残った。
明治5年(1874年)郷社に列した。(Wikipediaより)


「薩藩水軍軍港跡」碑

関ヶ原の戦いに敗れ、北進の望みを絶たれた島津氏は、対明貿易経営に意欲をみせ、樺山久高を総大将、平田増宗を副将として、慶長14年(1609)100隻、兵3000人の大部隊で琉球を攻め、琉球国の持つ対明貿易の権益を奪いました。
その時薩摩水軍の軍港であったのがこの付近でした。当時このあたりは海で、戦国時代に稲荷川河口に港が築かれたことから、相当大きな港町が生まれました。しかし、度重なる洪水によって川底に大量の土砂が堆積し、大型の船の出入りが不自由になったため、港は甲突川河口に移されました。

春日神社前に森有礼(もりありのり)誕生地の石碑が建っています。

日本で最初の文部大臣となり、日本の教育の基礎を築いた森有礼の生まれたところです。

明治の政治家。薩摩(さつま)鹿児島藩士出身。1865年藩命により五代友厚らとイギリスに留学。1867年には自ら渡米して勤労と信仰の生活を送り,翌年帰国。新政府に出仕したが,廃刀論を提案して一時免官。1870年再度渡米して教育事情を視察。明六社を創設して社長となり啓蒙思想を宣伝。1885年第1次伊藤博文内閣で初代文相となり,帝国大学令以下諸学校令を制定,明治憲法下の教育制度を確立。伊勢神宮への不敬を理由に西野文太郎により暗殺された。(コトバンクより)

にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。
応援よろしくお願いします!

にほんブログ村
歴女日記ブログランキングに参加しています。
ご協力お願いしますm(__)m

歴女日記 ブログランキングへ

鹿児島五社は島津氏の勧請によるものが多いが、ここは唯一発祥に島津氏と関係のない神社である。
天喜元年(1053年)、藤原純友の5代の孫を称する長谷場直純が鹿児島湾を望む丘陵地に東福寺城を築いた際、その鎮守神として藤原氏の氏神に当たる大和国の春日大社を勧請して創建された。因みに鎮座地は東福寺城の船着き場であったと言われる。
その後、長谷場氏は南北朝時代には南朝側に付いたために北朝側であった島津氏と争うことになり、康永2年(1343年)、島津貞久に依って東福寺城は陥落した。その後東福寺城は戦国時代まで使われたが江戸時代初期に廃城となり当神社だけが残った。
明治5年(1874年)郷社に列した。(Wikipediaより)


「薩藩水軍軍港跡」碑

関ヶ原の戦いに敗れ、北進の望みを絶たれた島津氏は、対明貿易経営に意欲をみせ、樺山久高を総大将、平田増宗を副将として、慶長14年(1609)100隻、兵3000人の大部隊で琉球を攻め、琉球国の持つ対明貿易の権益を奪いました。
その時薩摩水軍の軍港であったのがこの付近でした。当時このあたりは海で、戦国時代に稲荷川河口に港が築かれたことから、相当大きな港町が生まれました。しかし、度重なる洪水によって川底に大量の土砂が堆積し、大型の船の出入りが不自由になったため、港は甲突川河口に移されました。

春日神社前に森有礼(もりありのり)誕生地の石碑が建っています。

日本で最初の文部大臣となり、日本の教育の基礎を築いた森有礼の生まれたところです。

明治の政治家。薩摩(さつま)鹿児島藩士出身。1865年藩命により五代友厚らとイギリスに留学。1867年には自ら渡米して勤労と信仰の生活を送り,翌年帰国。新政府に出仕したが,廃刀論を提案して一時免官。1870年再度渡米して教育事情を視察。明六社を創設して社長となり啓蒙思想を宣伝。1885年第1次伊藤博文内閣で初代文相となり,帝国大学令以下諸学校令を制定,明治憲法下の教育制度を確立。伊勢神宮への不敬を理由に西野文太郎により暗殺された。(コトバンクより)

にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。
応援よろしくお願いします!

にほんブログ村
歴女日記ブログランキングに参加しています。
ご協力お願いしますm(__)m

歴女日記 ブログランキングへ
スポンサーサイト
NoTitle