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2018.12/24 [Mon]
南洲墓地 別府晋介の墓
世はクリスマスイブ🎄というのに、お墓の記事ですみません(;´∀`)
南洲墓地の別府晋介の墓を紹介します。
史実では、西郷どんの介錯を務めましたが、残念ながら最終回にその場面はありませんでした(;゚ロ゚)
晋介どん、どこに行ってしまわれたのですか~~(^_^;
ここで書かなければ、あまりにも気の毒なので(;・∀・)



別府晋介は、弘化4年(1847年)、鹿児島郡吉野村実方で別府十郎の第2子として誕生。諱は景長、通称は晋介。長兄は別府九郎。従兄の桐野利秋(中村半次郎)とは実の兄弟以上に仲が良かったといいます。
戊辰戦争では、薩摩軍分隊長として東北地方に転戦。
明治2年(1869年)には、鹿児島常備隊の小隊長、明治4年(1871年)西郷隆盛が廃藩置県に備えて兵を率いて上京したとき、小隊を率いて従い、御親兵に編入され、次いで近衛陸軍大尉に任ぜられました。
明治5年(1872年)西郷が朝鮮偵察を命じた際には、北村重頼・河村洋与とともに外務大丞・花房義質の随員という形で釜山に赴き、朝鮮内地を偵察した。
明治6年の征韓論政変で、西郷に従い帰鹿。
加治木郷ほか4郷の区長,また私学校の運営に参画。
明治10年、西南戦争に各郷連合大隊長となり、先発して熊本城の攻囲戦に奮闘。兵力増強のため一旦帰鹿。その後各地に転戦し、8月西郷らと可愛岳を突出し、鹿児島に帰ります。
9月24日、城山陥落の日、西郷の洞前に整列した40余名は岩崎口へ進撃し、途中、銃弾で負傷した西郷が切腹を覚悟すると、晋介は駕籠から下り、「御免なったもんし(お許しください)」と叫び、西郷を介錯した。その後、弾雨の中で自決しました。享年31。
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別府晋介は、弘化4年(1847年)、鹿児島郡吉野村実方で別府十郎の第2子として誕生。諱は景長、通称は晋介。長兄は別府九郎。従兄の桐野利秋(中村半次郎)とは実の兄弟以上に仲が良かったといいます。
戊辰戦争では、薩摩軍分隊長として東北地方に転戦。
明治2年(1869年)には、鹿児島常備隊の小隊長、明治4年(1871年)西郷隆盛が廃藩置県に備えて兵を率いて上京したとき、小隊を率いて従い、御親兵に編入され、次いで近衛陸軍大尉に任ぜられました。
明治5年(1872年)西郷が朝鮮偵察を命じた際には、北村重頼・河村洋与とともに外務大丞・花房義質の随員という形で釜山に赴き、朝鮮内地を偵察した。
明治6年の征韓論政変で、西郷に従い帰鹿。
加治木郷ほか4郷の区長,また私学校の運営に参画。
明治10年、西南戦争に各郷連合大隊長となり、先発して熊本城の攻囲戦に奮闘。兵力増強のため一旦帰鹿。その後各地に転戦し、8月西郷らと可愛岳を突出し、鹿児島に帰ります。
9月24日、城山陥落の日、西郷の洞前に整列した40余名は岩崎口へ進撃し、途中、銃弾で負傷した西郷が切腹を覚悟すると、晋介は駕籠から下り、「御免なったもんし(お許しください)」と叫び、西郷を介錯した。その後、弾雨の中で自決しました。享年31。
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