Entries
2019.06/08 [Sat]
家康公祭り・家康楽市 2019 浜松徳川武将隊「三方ヶ原の戦い」と夏目次郎左衛門吉信の碑
家康公祭り二日目の午後の浜松徳川武将隊のステージでは、「三方ヶ原の戦い」より家康の敗走が演じられました。
家康公を誰が演じるのかと思ったら・・・井伊直虎殿でした!

金髪ウィッグをつけて颯爽と登場!
徳川家康役の直虎殿

武田軍によって徳川軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められ、夏目次郎左衛門吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰りました。
家康公をお守りするのは、松下清景殿と酒井忠次殿。



武田信玄役を演じたのは、本多忠勝殿。

信玄役にぴったりですね!


ここからの見せ場は、夏目次郎左衛門吉信殿ですね!

浜松城の留守居をしていた吉信は、窮地に陥った家康の救援に向かい、家康に退却を進言。
決死の突撃をしようとする家康を城に逃がすために、武田勢の追手に突入、身代わりとなって戦死しました。。


そして家康公が、あの有名な『顰像』(しかみぞう)ポーズを( ゚Д゚)

見事にこのポースを再現されました(;´∀`)

家康が、三方ヶ原での敗戦直後にこの像を自戒のため描かせたという伝承があります。

戦い終わって、各武将隊が入り混じって、ダンスタイム♪




ここで、浜松城からも歩いて行ける夏目次郎左衛門吉信の史跡を紹介します。
犀ヶ崖古戦場の一角(現在はバス停の前)に夏目次郎左衛門吉信の碑があります。


吉信は1563年の三河一向一揆で処刑されるところを家康の寛大な処置によって助けられました。
それ以来、家康に恩を感じ、三方ヶ原の合戦の際、敗走中の家康の身代わりとなり、
「我こそは家康なり」と武田軍の前に立ちはだかり、討ち死にしました。
夏目吉信
古くから松平氏(徳川氏)家臣であり、永禄5年(1562年)の三州八幡合戦のおりには、今川軍の攻撃で家康方が総崩れになったとき、後殿(しんがり)を務め、国府までの間、6度踏み止まり奮戦したという。
永禄6年(1563年)に三河一向一揆が起こると一揆側に加担し、六栗城(野羽城との説も)に篭って松平家康と敵対した。しかし、ともに戦っていた乙部八兵衛という者の内通により松平伊忠に捕らわれることとなり、後に伊忠の嘆願により家康に許され帰参を果たす。
元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いの時、家臣が止めるのも聞かず決死の突撃しようとする家康を諌言して逃がすべく、家康の兜と馬を以って武田勢に突入。身代わりとなって戦死した。
なお、吉信の三男・吉次は、元亀3年(1572年)に口論となった同僚を斬り殺し出奔したが、その後も名を変えて徳川家に奉公していた。関ヶ原の戦いの直後、家康にそのことが露見するが、吉信の忠節を考慮し許された。また、大坂夏の陣の後に家康に呼ばれ「今こうしていれるのもお前の父のおかげだ、感謝している」と礼を言われ徳川秀忠の家臣に配された。(Wikipediaより)
夏目漱石は夏目氏の後裔だそうです。
道を渡ると向かい側に犀ヶ崖古戦場・資料館があります。
にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。
応援よろしくお願いします!

にほんブログ村
歴女日記ブログランキングに参加しています。
ご協力お願いしますm(__)m

歴女日記 ブログランキングへ
家康公を誰が演じるのかと思ったら・・・井伊直虎殿でした!

金髪ウィッグをつけて颯爽と登場!
徳川家康役の直虎殿

武田軍によって徳川軍の各隊が次々に壊滅していく中、家康自身も追い詰められ、夏目次郎左衛門吉信や鈴木久三郎を身代わりにして、僅かな供回りのみで浜松城へ逃げ帰りました。
家康公をお守りするのは、松下清景殿と酒井忠次殿。



武田信玄役を演じたのは、本多忠勝殿。

信玄役にぴったりですね!


ここからの見せ場は、夏目次郎左衛門吉信殿ですね!

浜松城の留守居をしていた吉信は、窮地に陥った家康の救援に向かい、家康に退却を進言。
決死の突撃をしようとする家康を城に逃がすために、武田勢の追手に突入、身代わりとなって戦死しました。。


そして家康公が、あの有名な『顰像』(しかみぞう)ポーズを( ゚Д゚)

見事にこのポースを再現されました(;´∀`)

家康が、三方ヶ原での敗戦直後にこの像を自戒のため描かせたという伝承があります。

戦い終わって、各武将隊が入り混じって、ダンスタイム♪




ここで、浜松城からも歩いて行ける夏目次郎左衛門吉信の史跡を紹介します。
犀ヶ崖古戦場の一角(現在はバス停の前)に夏目次郎左衛門吉信の碑があります。


吉信は1563年の三河一向一揆で処刑されるところを家康の寛大な処置によって助けられました。
それ以来、家康に恩を感じ、三方ヶ原の合戦の際、敗走中の家康の身代わりとなり、
「我こそは家康なり」と武田軍の前に立ちはだかり、討ち死にしました。
夏目吉信
古くから松平氏(徳川氏)家臣であり、永禄5年(1562年)の三州八幡合戦のおりには、今川軍の攻撃で家康方が総崩れになったとき、後殿(しんがり)を務め、国府までの間、6度踏み止まり奮戦したという。
永禄6年(1563年)に三河一向一揆が起こると一揆側に加担し、六栗城(野羽城との説も)に篭って松平家康と敵対した。しかし、ともに戦っていた乙部八兵衛という者の内通により松平伊忠に捕らわれることとなり、後に伊忠の嘆願により家康に許され帰参を果たす。
元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いの時、家臣が止めるのも聞かず決死の突撃しようとする家康を諌言して逃がすべく、家康の兜と馬を以って武田勢に突入。身代わりとなって戦死した。
なお、吉信の三男・吉次は、元亀3年(1572年)に口論となった同僚を斬り殺し出奔したが、その後も名を変えて徳川家に奉公していた。関ヶ原の戦いの直後、家康にそのことが露見するが、吉信の忠節を考慮し許された。また、大坂夏の陣の後に家康に呼ばれ「今こうしていれるのもお前の父のおかげだ、感謝している」と礼を言われ徳川秀忠の家臣に配された。(Wikipediaより)
夏目漱石は夏目氏の後裔だそうです。
道を渡ると向かい側に犀ヶ崖古戦場・資料館があります。
にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。
応援よろしくお願いします!

にほんブログ村
歴女日記ブログランキングに参加しています。
ご協力お願いしますm(__)m

歴女日記 ブログランキングへ
スポンサーサイト
NoTitle