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2021.02/23 [Tue]
渋沢栄一の生誕の地(6)尾高惇忠生家
尾高惇忠は、渋沢栄一の従兄であり、学問の師でもありました。

明治維新後は富岡製糸場の初代場長を務めた人物です。
官営富岡製糸場の初代所長,明治前期の殖産興業推進者。武蔵国榛沢郡手計村(深谷市)の名主尾高保孝の子。幼名新五郎,字は子行,藍香と号した。明治1(1868)年彰義隊に参加するが脱退,その後振武軍に加わり官軍と戦って敗退。維新後は明治2年静岡藩勧業付属,3年民部省監督権少佑,次いで大蔵省製糸場の計画を担当した渋沢栄一の漢学の師であり,義兄に当たる(妹千代が栄一の最初の夫人)ことから,同省勧業寮富岡製糸場掛(のち勧業大属)となり,同製糸場の建設,経営に尽力。長女勇は伝習工女に志願してこれに協力した。また秋蚕の飼育法を研究し,その普及に努力した。9年末同製糸場を辞し,翌年から第一国立銀行盛岡支店,仙台支店に勤めるかたわら,製藍法の改良普及にも尽くし,著書に『蚕桑長策』(1889),『藍作指要』(1890),がある。(コトバンクより)
この尾高惇忠の生家は、江戸時代後期に惇忠の曽祖父・磯五郎が建てたといわれ、この家で栄一の妻となったちよ、見立養子となった平九郎、惇忠の娘で富岡製糸場伝習工女第一号となるゆうが育ちました。

この地方の商家建物の趣を残す貴重な建物で、当時は「油屋」の屋号で呼ばれていました。
また、若き日の惇忠や栄一らが、尊皇攘夷思想に共鳴し、高崎城乗っ取りの謀議をなしたのも、この家の二階の部屋と伝わっています。
平成二十二年 (2010) 二月十日に深谷市指定文化財(史跡)に指定されました。
中に立ち入ることは出来ませんが、外観の見学のみ出来ます。






床の間には栄一書の額が飾られています。

「出藍」は「青はこれを藍(あい)より取りて藍より青し」からそこから生まれたものが、そのもとのものよりもすぐれていること。弟子が師にまさることを意味します。
藍玉

台所

主屋裏の煉瓦倉庫には、「上敷免製」の刻印を残す煉瓦が使われており、日本煉瓦製造株式会社ができた明治二十一年 (1888) 以降の建築であることがわかります。




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明治維新後は富岡製糸場の初代場長を務めた人物です。
官営富岡製糸場の初代所長,明治前期の殖産興業推進者。武蔵国榛沢郡手計村(深谷市)の名主尾高保孝の子。幼名新五郎,字は子行,藍香と号した。明治1(1868)年彰義隊に参加するが脱退,その後振武軍に加わり官軍と戦って敗退。維新後は明治2年静岡藩勧業付属,3年民部省監督権少佑,次いで大蔵省製糸場の計画を担当した渋沢栄一の漢学の師であり,義兄に当たる(妹千代が栄一の最初の夫人)ことから,同省勧業寮富岡製糸場掛(のち勧業大属)となり,同製糸場の建設,経営に尽力。長女勇は伝習工女に志願してこれに協力した。また秋蚕の飼育法を研究し,その普及に努力した。9年末同製糸場を辞し,翌年から第一国立銀行盛岡支店,仙台支店に勤めるかたわら,製藍法の改良普及にも尽くし,著書に『蚕桑長策』(1889),『藍作指要』(1890),がある。(コトバンクより)
この尾高惇忠の生家は、江戸時代後期に惇忠の曽祖父・磯五郎が建てたといわれ、この家で栄一の妻となったちよ、見立養子となった平九郎、惇忠の娘で富岡製糸場伝習工女第一号となるゆうが育ちました。

この地方の商家建物の趣を残す貴重な建物で、当時は「油屋」の屋号で呼ばれていました。
また、若き日の惇忠や栄一らが、尊皇攘夷思想に共鳴し、高崎城乗っ取りの謀議をなしたのも、この家の二階の部屋と伝わっています。
平成二十二年 (2010) 二月十日に深谷市指定文化財(史跡)に指定されました。
中に立ち入ることは出来ませんが、外観の見学のみ出来ます。






床の間には栄一書の額が飾られています。

「出藍」は「青はこれを藍(あい)より取りて藍より青し」からそこから生まれたものが、そのもとのものよりもすぐれていること。弟子が師にまさることを意味します。
藍玉

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主屋裏の煉瓦倉庫には、「上敷免製」の刻印を残す煉瓦が使われており、日本煉瓦製造株式会社ができた明治二十一年 (1888) 以降の建築であることがわかります。




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NoTitle
指定文化財になると価値があるので
中に入れなくなっちゃいますよね。
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