Entries
2021.02/28 [Sun]
浜川橋(涙橋)~坂本龍馬が守った砲台跡「浜川砲台」
一昨年前に訪ねた時の記事です。
浜川橋は、品川区南大井にある鈴ヶ森刑場跡の近くの立会川にかかっていた旧東海道の橋で、通称「涙橋」

江戸時代、小塚原と鈴ヶ森はともに犯罪者の刑場でした。
鈴ヶ森は江戸の北の刑場である小塚原に対しての南の刑場として設置され、刑場に向かうには、近くの立会川にかかる涙橋を渡りました。
涙橋は、罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場であり、この橋の上で涙を流したことから、この名が付けられました。

浜川橋から新浜川公園へ向かいます。
龍馬のイラストが描かれた塀の横を通って公園へ。

小さな公園ですが、そこに江戸に剣術修業に来ていた坂本龍馬が守った砲台跡「浜川砲台」があります。


浜川砲台の大砲
幕末史研究家 小宮濃清明
嘉永6年(1853)6月、アメリカ合衆国はペリー提督の率いる4艘の艦隊を日本に派遣して 開国を迫った。国書を幕府に渡すと、来春、再来航するとしてペリーは去った。
日本側は、次回は戦争になると想定して、江戸湾の防備に力を入れることになる。
土佐藩はここに鮫洲抱屋敷を持っていたので、砲台を造ることを幕府に願い出た。
嘉永7年(1854)1月、ペリー艦隊が再来航した時、急遽、土佐藩が造ったのが、浜川砲台である。
6貫目ホーイッスル砲 1門(復元)
1貫目ホーイッスル砲 2門
鉄製5貫目砲 5門
計8門を配備した砲台だった。ここに復元したのは6貫目ホーイッスル砲である。
実物のない他藩では丸太を大砲らしく見せた偽物もあった中で土佐藩の装備は江戸っ子の評判も上々で、次のような 狂歌も作られている。
品川の固めの出しのよくきくは 下地もうまく なれし土佐武士
(品川の固め場(守備陣地)の良く効果的であったのは、準備もうまい熟練の土佐のサムライだからだ)
これは土佐の鰹節にかけた狂歌で堅目のダシの良く効くは、料理の下ごしらえも、上手くできる土佐ぶし(鰹節) だからだという意味である。
この浜川砲台に佐久間象山塾で大砲操練を学んだ20歳の坂本龍馬がいたのである。

浜川砲台の大砲
立会川駅から、旧東海道浜川橋(涙橋)より海沿いの地域は、江戸時代土佐藩の鮫洲抱屋敷のあった場所です。
1853・54年の黒船来航に際し、防衛のため土佐藩もこの屋敷内に砲台を築きました。
2004年3月、その砲台の礎石が発見され、2015年11月、品川龍馬会や民意の力で砲台が完成致しました。
実際は八門の大砲を備えておりましたが、中でも一番大きかった大砲(六貫目ホーイッスル砲)を再現。(立会川駅前通り繁栄会)
現在の浜川中学校(東大井3-18-34)を中心とした地域は、かつて土佐藩の下屋敷があり、ペリー再来航後の安政初年に立会川河口左岸に砲台が設置されました。
新浜川公園に2015年に復元設置された「浜川砲台の大砲」は、この砲台に据えられた8門の大砲のうちの1つ「30ポンド6貫目ホーイッスル砲」を原寸大(全長 3メートル、車輪の直径 1.8メートル)で再現したものです。品川龍馬会のメンバーを中心に地元の人々が資金を集めて造り、区に寄贈されました。(しながわ観光協会)
にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。
応援よろしくお願いします!

にほんブログ村
歴女日記ブログランキングに参加しています。
ご協力お願いしますm(__)m

歴女日記ランキング
浜川橋は、品川区南大井にある鈴ヶ森刑場跡の近くの立会川にかかっていた旧東海道の橋で、通称「涙橋」

江戸時代、小塚原と鈴ヶ森はともに犯罪者の刑場でした。
鈴ヶ森は江戸の北の刑場である小塚原に対しての南の刑場として設置され、刑場に向かうには、近くの立会川にかかる涙橋を渡りました。
涙橋は、罪人にとってはこの世との最後の別れの場であり、家族や身内の者には、処刑される者との今生の悲しい別れの場であり、この橋の上で涙を流したことから、この名が付けられました。

浜川橋から新浜川公園へ向かいます。
龍馬のイラストが描かれた塀の横を通って公園へ。

小さな公園ですが、そこに江戸に剣術修業に来ていた坂本龍馬が守った砲台跡「浜川砲台」があります。


浜川砲台の大砲
幕末史研究家 小宮濃清明
嘉永6年(1853)6月、アメリカ合衆国はペリー提督の率いる4艘の艦隊を日本に派遣して 開国を迫った。国書を幕府に渡すと、来春、再来航するとしてペリーは去った。
日本側は、次回は戦争になると想定して、江戸湾の防備に力を入れることになる。
土佐藩はここに鮫洲抱屋敷を持っていたので、砲台を造ることを幕府に願い出た。
嘉永7年(1854)1月、ペリー艦隊が再来航した時、急遽、土佐藩が造ったのが、浜川砲台である。
6貫目ホーイッスル砲 1門(復元)
1貫目ホーイッスル砲 2門
鉄製5貫目砲 5門
計8門を配備した砲台だった。ここに復元したのは6貫目ホーイッスル砲である。
実物のない他藩では丸太を大砲らしく見せた偽物もあった中で土佐藩の装備は江戸っ子の評判も上々で、次のような 狂歌も作られている。
品川の固めの出しのよくきくは 下地もうまく なれし土佐武士
(品川の固め場(守備陣地)の良く効果的であったのは、準備もうまい熟練の土佐のサムライだからだ)
これは土佐の鰹節にかけた狂歌で堅目のダシの良く効くは、料理の下ごしらえも、上手くできる土佐ぶし(鰹節) だからだという意味である。
この浜川砲台に佐久間象山塾で大砲操練を学んだ20歳の坂本龍馬がいたのである。

浜川砲台の大砲
立会川駅から、旧東海道浜川橋(涙橋)より海沿いの地域は、江戸時代土佐藩の鮫洲抱屋敷のあった場所です。
1853・54年の黒船来航に際し、防衛のため土佐藩もこの屋敷内に砲台を築きました。
2004年3月、その砲台の礎石が発見され、2015年11月、品川龍馬会や民意の力で砲台が完成致しました。
実際は八門の大砲を備えておりましたが、中でも一番大きかった大砲(六貫目ホーイッスル砲)を再現。(立会川駅前通り繁栄会)
現在の浜川中学校(東大井3-18-34)を中心とした地域は、かつて土佐藩の下屋敷があり、ペリー再来航後の安政初年に立会川河口左岸に砲台が設置されました。
新浜川公園に2015年に復元設置された「浜川砲台の大砲」は、この砲台に据えられた8門の大砲のうちの1つ「30ポンド6貫目ホーイッスル砲」を原寸大(全長 3メートル、車輪の直径 1.8メートル)で再現したものです。品川龍馬会のメンバーを中心に地元の人々が資金を集めて造り、区に寄贈されました。(しながわ観光協会)
にほんブログ村 歴史ブログランキングに参加しています。
応援よろしくお願いします!

にほんブログ村
歴女日記ブログランキングに参加しています。
ご協力お願いしますm(__)m

歴女日記ランキング
スポンサーサイト
NoTitle
龍馬 1836年~1867年(31歳)
栄一 1840年~1931年(昭和)(91歳)
栄一の方が4歳若いそして昭和まで生きた
どちらもペリー来航で生き方に大いに
影響をうけたのでしょう。
ブログの記事から関連があるのかと考えました。