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2021.06/10 [Thu]
水戸の旅(22)常磐共有墓地 安積澹泊~関鉄之助の墓
常盤共有墓地は、寛文6年(1666)、水戸藩第2代藩主・徳川光圀が命じて城下の常磐村(現:水戸市松本町)に開設された特有の寺院に属さない藩士共有の墓地です。

光圀は、城下の上町に居住する藩士には常磐村の常磐共有墓地、下町に居住する藩士には現在の水戸市酒門町に酒門共有墓地を建立して、藩士の先祖供養の地としました。
当初は墓に戒名を記入することを禁じ、墓碑も一定の大きさと形に定められていましたが、現在では諸宗の共同墓地として利用されています。
この墓地には、彰考館総裁として修史に功のあった安積澹泊・大井松隣・藤田幽谷・豊田天功等の学者、幕末の改革に活躍した藤田東湖・吉成南園等、名医本間玄調等のほか、幕末の志士が数多く葬られており、水戸市の史跡に指定されています。

広大な墓地の中から探し出すのは大変と、事前に観光協会の方が、墓地の地図を送ってくださいました。これは非常に有難かったです。
まずは、水戸黄門の格さんでお馴染みの安積澹泊のお墓を見つけました。



安積澹泊(あさかたんぱく)(1656―1737)
江戸中期の歴史家、水戸藩士。名は覚、字(あざな)は子先(しせん)、通称覚兵衛。澹泊(斎)は号。晩年は老圃(ろうほ)、老牛、碧於亭(へきおてい)とも号した。水戸藩主徳川光圀(みつくに)が招いた明(みん)の儒学者朱舜水(しゅしゅんすい)の門人。1683年(天和3)彰考館編修となり『大日本史』の編纂(へんさん)に従事すること54年に及ぶ。その間1693年(元禄6)には彰考館総裁となった。その生涯の大部分は、佐々十竹(ささじゅうちく)とともに光圀を助けて修史事業に捧(ささ)げられた。後世の創作『水戸黄門漫遊記』の格さんのモデルにされた。禄高(ろくだか)は300石。おもな著書に『大日本史論賛』『烈祖成績』『西山遺事』『湖亭渉筆』『朱文恭遺事』『澹泊斎文集』『澹泊史論』などがある。墓は水戸藩士の常磐原(ときわばら)共有墓地(水戸市末広町)にある。(コトバンクより)
続いて、桜田門外の変で現場の指揮を取った尊攘派水戸藩士の関鉄之助の墓です。


関鉄之助(せきてつのすけ)(1824―1862)
江戸末期の水戸藩士。名は遠、士任と号す。城下水戸の生まれ。藩校弘道館(こうどうかん)に学んで、1856年(安政3)北郡奉行所(ほくぐんぶぎょうしょ)に勤め、大子(だいご)郷校の建設と農兵の組織などに努める一方、尊攘(そんじょう)運動に身を挺(てい)する。58年安政(あんせい)の大獄で、尊攘派志士への弾圧が始まると、大老井伊直弼(なおすけ)の暗殺計画を同志の高橋多一郎、金子孫二郎らと謀った。60年(万延1)3月、実行隊長として桜田門外に井伊を暗殺。のち逃れて常陸(ひたち)(茨城県)袋田村の豪農桜岡家、高柴(たかしば)村の益子(ましこ)家などにかくまわれるが、そこからさらに逃走の途中、越後(えちご)(新潟県)雲母(きら)温泉で捕らえられ、江戸で処刑された。著書に『西海転蓬(てんぽう)日録』『南遊遣悶(けんもん)集』などがある。(コトバンクより)
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光圀は、城下の上町に居住する藩士には常磐村の常磐共有墓地、下町に居住する藩士には現在の水戸市酒門町に酒門共有墓地を建立して、藩士の先祖供養の地としました。
当初は墓に戒名を記入することを禁じ、墓碑も一定の大きさと形に定められていましたが、現在では諸宗の共同墓地として利用されています。
この墓地には、彰考館総裁として修史に功のあった安積澹泊・大井松隣・藤田幽谷・豊田天功等の学者、幕末の改革に活躍した藤田東湖・吉成南園等、名医本間玄調等のほか、幕末の志士が数多く葬られており、水戸市の史跡に指定されています。

広大な墓地の中から探し出すのは大変と、事前に観光協会の方が、墓地の地図を送ってくださいました。これは非常に有難かったです。
まずは、水戸黄門の格さんでお馴染みの安積澹泊のお墓を見つけました。



安積澹泊(あさかたんぱく)(1656―1737)
江戸中期の歴史家、水戸藩士。名は覚、字(あざな)は子先(しせん)、通称覚兵衛。澹泊(斎)は号。晩年は老圃(ろうほ)、老牛、碧於亭(へきおてい)とも号した。水戸藩主徳川光圀(みつくに)が招いた明(みん)の儒学者朱舜水(しゅしゅんすい)の門人。1683年(天和3)彰考館編修となり『大日本史』の編纂(へんさん)に従事すること54年に及ぶ。その間1693年(元禄6)には彰考館総裁となった。その生涯の大部分は、佐々十竹(ささじゅうちく)とともに光圀を助けて修史事業に捧(ささ)げられた。後世の創作『水戸黄門漫遊記』の格さんのモデルにされた。禄高(ろくだか)は300石。おもな著書に『大日本史論賛』『烈祖成績』『西山遺事』『湖亭渉筆』『朱文恭遺事』『澹泊斎文集』『澹泊史論』などがある。墓は水戸藩士の常磐原(ときわばら)共有墓地(水戸市末広町)にある。(コトバンクより)
続いて、桜田門外の変で現場の指揮を取った尊攘派水戸藩士の関鉄之助の墓です。


関鉄之助(せきてつのすけ)(1824―1862)
江戸末期の水戸藩士。名は遠、士任と号す。城下水戸の生まれ。藩校弘道館(こうどうかん)に学んで、1856年(安政3)北郡奉行所(ほくぐんぶぎょうしょ)に勤め、大子(だいご)郷校の建設と農兵の組織などに努める一方、尊攘(そんじょう)運動に身を挺(てい)する。58年安政(あんせい)の大獄で、尊攘派志士への弾圧が始まると、大老井伊直弼(なおすけ)の暗殺計画を同志の高橋多一郎、金子孫二郎らと謀った。60年(万延1)3月、実行隊長として桜田門外に井伊を暗殺。のち逃れて常陸(ひたち)(茨城県)袋田村の豪農桜岡家、高柴(たかしば)村の益子(ましこ)家などにかくまわれるが、そこからさらに逃走の途中、越後(えちご)(新潟県)雲母(きら)温泉で捕らえられ、江戸で処刑された。著書に『西海転蓬(てんぽう)日録』『南遊遣悶(けんもん)集』などがある。(コトバンクより)
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NoTitle
井伊大老暗殺した下手人が逃げ回っていて
ついに捕まって死刑になった。
お墓をまわっていると歴史上のできごとも
実感できます。