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幕末の砲術家・高島秋帆の墓

幕末の砲術家・高島秋帆の墓は、東京都文京区向丘の大円寺にあります。

IMG_2630 大円寺

山号は金龍山。ほうろく地蔵の寺として知られています。

ほうろく地蔵のお堂
IMG_2632 ほうろく地蔵

ほうろく地蔵は、八百屋お七を供養するために建立された地蔵です。

IMG_2632 ほうろく地蔵2

IMG_2631 ほうろく地蔵

本堂には高村光雲ゆかりの七観音がまつられ、十万三世一切仏の道場となっています。

IMG_2634 大円寺

大円寺の墓所
IMG_2637 高島秋帆

高島秋帆の墓
IMG_2642 高島秋帆

IMG_2641 高島秋帆

IMG_2643 高島秋帆

秋帆の墓を中心に、コの字形に6基の一族縁者の墓石が配置されており、1943年(昭和18)に国の史跡に指定されました。

Takashima_Shuhan_photograph.jpg

没年:慶応2.1.14(1866.2.28)
生年:寛政10(1798)
幕末の砲術家,洋式兵学者。高島流砲術の創始者。諱を茂敦。字は舜臣,子厚。通称は糾之丞,四郎太夫。秋帆は号。長崎町年寄を勤める傍ら出島砲台を受け持った四郎兵衛茂紀の3男として長崎に生まれる。父から荻野流,天山流砲術を学んだが,長足の進歩を遂げつつある洋式砲術とは隔絶した差のあることを知り,通詞(通訳)にオランダ語兵書の翻訳を依頼したり,出島砲台の責任者であったことから,オランダ人に疑問を直接問いただすなどしてヨーロッパの軍事技術に関する知識を修得した。また町年寄の特権である脇荷貿易によって各種の火器やオランダ兵学書を買い求め,天保5(1834)年ごろにはこれらの成果を基に高島流砲術,洋式銃陣を教授するようになった。アヘン戦争(1839)に関する情報に大きな衝撃を受け,天保11年西欧列強のアジア侵略から日本を防衛するために洋式砲術を採用すべきだとする意見書を江戸幕府に提出した。翌年幕命により江戸に出て,5月9日徳丸ケ原(東京都板橋区)で日本最初の洋式砲術演習を行った。これにより幕府の高島流砲術採用が決まり幕臣江川太郎左衛門,下曾根金三郎のふたりに高島流を皆伝して長崎に帰ったところが,かねてから蘭学を蛇蝎のごとく嫌っていた幕府町奉行鳥居耀蔵によって天保13年謀反の罪を着せられ,投獄される。その後ペリーの来航など世情も大きく変化したこともあって,幽囚10年の嘉永6(1853)年に赦免となり,江川太郎左衛門の許に身を寄せ,通称を喜平と改める。安政2(1855)年には普請役に任ぜられ,鉄砲方手付教授方頭取を命じられ,次いで安政4年富士見御宝蔵番兼講武所砲術師範役を勤め,現職にあって没す。「火技中興洋兵開基」と称えられ,日本の軍事近代化に大きな足跡を残した。
(コトバンクより)

秋帆が日本語の「号令」を用い、それが明治以降の軍隊や学校に受け継がれたと言う人がいるが、オランダ人は秋帆に「軍事用語は必ずオランダ語を使うこと」を条件に西洋砲術を教授したので(これはオランダが日本への影響力を強めるための施策であったが)、秋帆は日本人の美徳として師の命令を厳守し、門人に対する号令は全てオランダ語で行っていた。

ランドセル(背嚢=ランセル)やハトロン紙(紙包火薬=パトロン)など、オランダ語の軍事用語の中には外来語として一般に普及したものがあるが、他の外来語に較べて数が多いとは言えない。

後に攘夷思想に基づく外国語排除運動によって、幕府や雄藩でオランダ式号令の日本語化が進められるが、オランダ語に親しんだ門弟や将兵には不評で混乱を招いたという。その後門弟達が苦心して日本語化した号令が、形を少しずつ変えながら日本の軍隊や学校の号令として普及した。いくつかの例を揚げると、「進め(マルス)」「止まれ(ハルト)」「気をつけ(ゲーフトアクト)」「前へ習え(ペロトン)」「休め(リユスト)」「頭右(ホーフド・レクツ)」「右向け右(レクツ・オム)」「狙え(セット)」「撃て(ヒュール)」「捧げ筒(プレゼンテールト・ヘットゲール)」等がある。

現在でも高島流砲術は1841年の洋式砲術演習場所となった東京都板橋区の有志(西洋流火術鉄砲隊保存会)により継承されており、依頼があれば全国各地へ出向き高島流砲術の実射演武を行っている。

注目すべきは号令を当時と同じ「オランダ式号令」を使っている点であり、その動作は和流砲術とは異なり極めてスピーディー、まさにその後の軍隊に受け継がれる過渡期の動きと言える。(Wikipediaより)

この墓所には、明治時代の小説家であり、樋口一葉を終生助けた「斎藤緑雨の墓」や延命地蔵もあります。

300px-Saito_Ryokuu_2.jpg

斎藤緑雨の墓
IMG_2639 斎藤緑雨

IMG_2640 斎藤緑雨

没年:明治37.4.13(1904)
生年:慶応3.12.30(1868.1.24)
明治時代の小説家,評論家。本名賢,別号江東みどり,正直正太夫,登仙坊など。伊勢国神戸(三重県鈴鹿市)の生まれ。少年時代は幼友達の上田万年と筆写回覧雑誌を出し,文才を示した。長じて仮名垣魯文に認められ,『今日新聞』『めさまし新聞』に執筆,坪内逍遥,幸田露伴,森鴎外らとも相識った。本格的な批評は『小説八宗』(1889)からで,当時の作家を見事に裁断,『初学小説心得』『正直正太夫死す』(ともに1890年)も,パロディ精神旺盛である。明治24(1891)年に小説『油地獄』を『国会』に,『かくれんぼ』を『文学世界』に書き,力量を示す。油の鍋に女の写真を投げ込む趣向など,思わず息をのむ。『門三味線』(1895)などの小説も書くが,決して生活は楽ではなかった。鴎外らとの合評時評『三人冗語』『雲中語』に参加。樋口一葉ともわずかだが交友があった。一葉没後の『一葉全集』は,緑雨の校訂。『万朝報』に『眼前口頭』(1898~99)を書き,「按ずるに筆は一本也,箸は二本也。衆寡敵せずと知るべし」(『青眼白頭』1900)と意気をしめす。転居を繰り返し本所横網町で病没する直前,友人馬場孤蝶に,「僕本月本日を以て目出度死去致候間此間此段広告仕候也」という広告文を口述した。世を斜に見るその営為に,近年評価が高まっている。

延命地蔵
IMG_2644 延命地蔵尊


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Comment

NoTitle 

東京都文京区向丘の大円寺にある幕末の砲術家・高島秋帆の墓などの見事な記事です!
  • posted by 四方續夫 
  • URL 
  • 2021.06/16 07:17分 
  • [Edit]

NoTitle 

こんにちは。
ここは東京ですか。
あの八百屋お七の銅像があるころ。
大円寺は幕末のころの話題どころですから、
いま調べているところです。
いつも知らないこと教えていただいて感謝です。🤩
  • posted by マーチャン 
  • URL 
  • 2021.06/16 10:53分 
  • [Edit]

NoTitle 

八百屋お七は聞いたことがありましたが、
こんなお地蔵さんもあるのですね。
応援ぽち2.
  • posted by みかん農家 
  • URL 
  • 2021.06/16 22:11分 
  • [Edit]

こんばんは 

こんばんは。
金龍山ですか。
浅草寺と同じ山号ですね。
そう言うのってあるんですか?
同じでも構わないのですかね。
特許じゃないから大丈夫なのか。(笑)
  • posted by 自転車親父 
  • URL 
  • 2021.06/16 22:35分 
  • [Edit]

皆様へ 

こんばんは!
今日もコメントありがとうございましたm(__)m

ここは、以前お七ゆかりの寺として訪ねたことがあったのですが、墓所は初めて見学しました。
山号が同じお寺はたまに見かけますよ。
人の名前と同じようなものではないのでしょうか。
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2021.06/16 22:51分 
  • [Edit]

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