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2012.06/29 [Fri]
源朝長(1) 積雲院の朝長の墓と義朝の供養塔
静岡県袋井市の積雲院には源朝長の墓があります。
積雲院は、文治元年(1185)に源頼朝が、兄の朝長の菩提を弔うために建立したと伝えられる古刹です。

天正16年(1588)に可睡斎の和尚によって曹洞宗に改められました。
参道入り口の廟堂には、頼朝の父・義朝と二人の兄・義平、朝長の供養塔とされる五輪塔があります。
義朝・義平・朝長の供養塔

平治元年(1159)の平治の乱で、戦いに矢濡れた朝長は、父や兄と供に大垣市の青墓まで逃げて来ました。
しかし、その途中で朝長は足に深い傷を負ってしまいます。
足手まといになることを察知した朝長は、自害する覚悟を伝え、父に介錯を頼みました。
その後、父・義朝は尾張の国で、家来・長田忠致の裏切りに
遭い、殺されてしまいます。
朝長の遺体は大垣市青墓に葬られましたが、平家に発見され、墓はあばかれ、朝長の首は京都の六条河原で義朝の首と供にさらし首にされました。
これを知った家来の大谷忠太は、首を抱いて自分の故郷である袋井市三川に葬りました。
こうして朝長の首は袋井に、胴体は大垣の青墓に別々に葬られることになったのです。
積雲院がある「友永」という地名は朝長に由来するといわれ、友永の南には「大谷」という地名も残されています。
毎年8月15日の夜には朝長の霊を弔うため、村人によって御沙汰神社から供養塔までの間を、念仏を唱えながら渡る「源朝長公御祭礼」と呼ばれる廻り念仏が行われています。
この祭礼は、悪天候によって行われなかった年はなかったと伝えられています。
朝長の墓


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積雲院は、文治元年(1185)に源頼朝が、兄の朝長の菩提を弔うために建立したと伝えられる古刹です。

天正16年(1588)に可睡斎の和尚によって曹洞宗に改められました。
参道入り口の廟堂には、頼朝の父・義朝と二人の兄・義平、朝長の供養塔とされる五輪塔があります。
義朝・義平・朝長の供養塔

平治元年(1159)の平治の乱で、戦いに矢濡れた朝長は、父や兄と供に大垣市の青墓まで逃げて来ました。
しかし、その途中で朝長は足に深い傷を負ってしまいます。
足手まといになることを察知した朝長は、自害する覚悟を伝え、父に介錯を頼みました。
その後、父・義朝は尾張の国で、家来・長田忠致の裏切りに
遭い、殺されてしまいます。
朝長の遺体は大垣市青墓に葬られましたが、平家に発見され、墓はあばかれ、朝長の首は京都の六条河原で義朝の首と供にさらし首にされました。
これを知った家来の大谷忠太は、首を抱いて自分の故郷である袋井市三川に葬りました。
こうして朝長の首は袋井に、胴体は大垣の青墓に別々に葬られることになったのです。
積雲院がある「友永」という地名は朝長に由来するといわれ、友永の南には「大谷」という地名も残されています。
毎年8月15日の夜には朝長の霊を弔うため、村人によって御沙汰神社から供養塔までの間を、念仏を唱えながら渡る「源朝長公御祭礼」と呼ばれる廻り念仏が行われています。
この祭礼は、悪天候によって行われなかった年はなかったと伝えられています。
朝長の墓


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立派な供養塔!
また、家来の大谷忠太は、首を抱いて自分の故郷である袋井市三川に葬りました。
立派な家来でしたね!たいしたものです。まだまだ静岡県は見るべきところが多く残っています。
11月末か12月初めに車一人旅を検討中です。