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大河ドラマに恋して

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源朝長(3)昔話に語り継がれる朝長と頼朝の絆

静岡県磐田市、袋井市、森町に伝わる昔話・「中遠昔話」の中にも朝長の墓のことが登場しています。

1195年の10月のこと。鎌倉に幕府をつくった源頼朝は、諸国を統一したあと、東海道を通って京都へ上がることになりました。
 
その頃の幕府の役人が記した道中日誌に、四日間の空白があります。
この間に頼朝は、兄の朝長の墓を供養(放生会)したと伝えられています。

朝長の墓があるのが、今の袋井市(友永)の積雲院門前。
京都に上がる頼朝は、かつて父や兄と共に東国へ逃げたときの苦しさを思い出し、その途中で命を落とした兄の墓へ詣でて供養したのです。

供養のための放生会は、近くの池のほとりで大々的に行われ、黄金の札をつけた数多くの鶴が放たれました。
以来、人々は、この池を鶴ヶ池と呼ぶようになったということです。
鶴の寿命は千年。江戸時代、羽に札をつけた鶴を捕まえた人が、「おそらくは、頼朝が放生会で放った鶴だろう。」と言ったという話が、幕末期の随筆に書かれています。(「磐田昔ばなし」より)

鶴ヶ池

1195年の10月のこと。鎌倉に幕府をつくった源頼朝は、諸国を統一したあと、東海道を通って京都へ上がることになりました。
 その頃の幕府の役人が記した道中日誌に、四日間の空白があります。この間に頼朝は、兄の朝長の墓を供養(放生会)したと伝えられています。
 朝長の墓があるのが、今の袋井市(友永)の積雲院門前。京都に上がる頼朝は、かつて父や兄と共に東国へ逃げたときの苦しさを思い出し、その途中で命を落とした兄の墓へ詣でて供養したのです。
 供養のための放生会は、近くの池のほとりで大々的に行われ、黄金の札をつけた数多くの鶴が放たれました。以来、人々は、この池を鶴ヶ池と呼ぶようになったということです。鶴の寿命は千年。江戸時代、羽に札をつけた鶴を捕まえた人が、「おそらくは、頼朝が放生会で放った鶴だろう。」と言ったという話が、幕末期の随筆に書かれています。
(「磐田昔ばなし」より)

また鶴ヶ池のすぐ近くには日本の秘境100選の一つであるトンボの楽園・桶ヶ谷沼があります。

桶ヶ谷沼についてはこちらをご覧ください。⇒桶ヶ谷沼

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Comment

朝長の墓! 

 京都に上がる頼朝は、かつて父や兄と共に東国へ逃げたときの苦しさを思い出し、その途中で命を落とした、袋井市(友永)の積雲院門前の兄の墓へ詣でて供養した諭旨。
 昔話にも往々にして真実が含まれていると言います。
そう、思いますね。 

NoTitle 

なんか、いい話かな。
頼朝も、朝長に対するおもいと、義経に対するおもいは、違いがあるのでしょうかね。
  • posted by YUMI 
  • URL 
  • 2012.07/01 08:56分 
  • [Edit]

四方さんへ 

頼朝には冷たい人間というイメージがあるのですが、こういうエピソードを聞くと、見方が変わります。
温かい一面もあったのですね。
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2012.07/01 09:11分 
  • [Edit]

YUMIさんへ 

同じ兄弟でも思いはだいぶ違うようですね。
義経との間は、梶原の讒言がなかったら、あんなに険悪な状態にならなかったでしょう。
  • posted by しずか 
  • URL 
  • 2012.07/01 09:13分 
  • [Edit]

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